昨年末に図書館から借りてきた本の中に、三島由紀夫の 『真夏の死』 という文庫本があった。この本には全部で11編もの短編が詰まっていた。その中の代表格なのか、この短編がタイトルとしてこの本に使われている。
この初版本は1953年(昭和28)頃のようである。三島はこの本の解説として、本人が 『自作自註』 と言うように、あえて、自ら筆を執っている。何故か?この解説は昭和45年6月と記してある。なんと、割腹事件(11月死去)を遂げたのと同年である。
この本の最初には、『煙草』 (1946年) というデビュー作がある。川端康成が雑誌 『人間』 に紹介してくれたのが 文壇への一歩だったと三島は認識している。
最後は仲たがいで分かれた二人であるが、三島らしく礼節を尽くして感謝しているようだが、「・・・川端氏が 『煙草』 の作品のどこを氏が認めてくれたのか?わからない」 と言っている。
自分ですらその小説の中に「・・・一人の確乎とした小説家がいたかどうか、今の私にははっきりと認めることができないのである。」と、呟いている。
確かに、『煙草』 を読めば、子供の作文みたいなストーリーである。しかし、その文飾は流石に三島らしく美しく巧みである。日本文学の作家はこうした技巧を備えておかなければならないといった模範のような文体だ。
『煙草』 には、三島美学の原点がある。長い月日を経ても変わらぬ三島の気質がそこに原石としてくすんでいる。
三島は、要するにこうした若き日の作品に対して批評家の介入を断固として許さなかったのだろう。他界する前にその為の布石としての 『自作自註』 だったと思う。
三島は、本当にこだわりの人だった。また、ある意味で不器用な人だったと思う。しかし、そうした過去の多くのコンプレックスに対して、その克服には異常な努力があった人でもある。
この 『真夏の死』 の作品で驚かされたのは、作品そのものよりも、三島の作家としての姿勢だった。この作品は、三島が解説するように、「・・・方法論としては、この一点を頂点とした円錐体をわざと逆様に立てたような、普通の小説の逆構成を考えた。」と言っている。
成る程、小説のストーリーに対する構成を事前に検討して作り上げているのだと。もちろんこの小説は、本当にあったと言う事件をヒントにして作り上げたという事も述べている。
日本の伝統美を飾る文学は、やはり、どんなに唐突な書き出しでも所詮仕組まれた造形美の塊かもしれない。
この作品には不思議と、漱石のような心理と景観描写巧みな美と、鴎外のような傍観者のような醒めた立場が見受けられるように感じられるのは何故だろう。
最後の締めくくりである、妻の朝子に良人の勝が言おうとして言えなかった 『お前は、一体何を待っているのだい』 という妙で不可解な言質の不気味な響きは、読み始めは緊張し、次第に退屈になっていた読者に対して冷や水を浴びせるように我に返させる。
その三島の最後の企みがこの小説を引き締めている。計算づくめの作品だが嫌味がないのがいい。
それにしても、不思議に思うのがこの作品を書いた時の三島の年齢が弱冠二十八歳頃の時だから驚いてしまう。三島の妻、瑤子との結婚が1958年(33歳頃)であるから、当時の若さでどうして家庭をもった夫婦のこれだけ深い心理を描写くことができたのか?
三島は早熟な人だといっても、こうも未経験の世界をうまく描けるものだろうか?
しかし、三島は東大紛争のとき、学生との討論集会でやり取りをしたが、そこでは、ひとりのある学生と三島との意見に大きなずれがあったのを思い出した。お互い、真剣に言い合っているのだがどうしても咬み合わない。
そこで、お互い育ちが違うなあ~と思った次第ですから、生活というものからくる物の考えは学習を超えたものがあるとつくづく思った次第だった。三島は、そこに気付かないから彼を理解できなかった。
三島の文学は鏡の中を覗いて見る虚構の世界なのかもしれない。
しかし、その虚構の世界が真実味を帯びて見えるのは何故だろう。また、あるとき、鏡の奥から悪戯に三島が手にかざしたもう一つの鏡があり、それが我々の心を映し出そうとしているかのように見えるのは何故だろう。
by 大藪光政