春の



前回、読んだ中島隆蔵氏の『荘子』を別の翻訳者でもう一度読んでみようと、岸陽子女史が書かれた翻訳本を手にしました。岸女史はネット検索で現在、早稲田大学の名誉教授とのことです。岸女史の本を読むに当たっては、前回の学習のお陰で、今回はわかりやすくて二日間程の合間に読むことが出来ました。


翻訳者を変えて『荘子』を再読すると、はっきりしてきたことがあります。そして、確かに唸らせられる箇所もありますが、大してそうでもなく、まあまあといった内容もあります。また自己矛盾というか『荘子』のロジックで考えれば、『荘子』が書かれてある内容そのものが矛盾しているというところがあることに気付きました。


これは、前回の翻訳があまり直接的でなく、間接的な言い回しであったので、こちらが考えることばかりが多く、勝手にイマージュしたからその辺が曖昧になってしまったのかなと思います。その点、岸女史は原本をぼかすことなく、直接的に翻訳されていますから、『荘子』のロジックがどうであるかを考えやすかったです。


先程、云ったような『荘子』の内容に問題点があるからといって、『荘子』の存在がゆらぐことはないのですが、読む者にとっては、ただ感心するばかりでなく己の思考を働かせることがもっとも大切だと思います。


また、あらためて興味を覚えたことに、ソクラテスと荘周とは、ほぼ同じ年代であり、考えも似たところがあるので東西の偉人として感慨深いものがあります。その代表的なものにソクラテスの「無知の知」と荘周の「知と不知」が挙げられるようです。


ヘーゲル全集の殆どがヘーゲル自身によるものではないのと同様に、『荘子』の内容も荘周自身によるものは、もしかすると、ほんの一部かもしれません。多くは口述筆記か、あるいは代筆かもしれません。そう考えた方が正解かもしれません。


さて、問題の『道』に関することですが、『道』は、『神』ではないのが面白いところです。これが『神』であれば、『荘子』は宗教的なイメージに少し近づきますが、そうではありません。荘周は、そうした存在について語ることはしていません。というより避けている気がします。


もし、『神』であれば人と神との関係を語らねばなりません。もし、『神』としたならば、神が人に与える作用・・・例えば、『救い』といったものを説明しなければなりません。また作家の遠藤周作みたいなクリスチャンでも、どんなに人が追い詰められても『神』は誰一人救うことはしない・・・ということをテーマに小説を書いたほど、普通の人が想定する『神』は、人に対して無作用なのですから、そのことを荘周はわかっていたと思います。


だから、荘周は「無作用としての作用」を、『道』で表現したと思います。それで、『荘子』は哲学として存在することが出来たのでしょう。そうなると、さらに『道』とは如何に!ということになります。


『荘子』を紐解けば、『道』はわかるのか?と云いますと・・・その答えはありません。つまり、言葉では書けない物なのです。目に見えない、文章に出来ない、人間の五感でつかめ切れないもの?そして『道』が何で在るかがわかる道案内(ガイド)はないのです。


『荘子』を自己流に紐解けば、『道』に達するためとか、もしくは『道』を達観するには、人は「無我」の境地にならないとそれに近づくことは出来ないようです。そして、『道』は人間にとって見ることの出来ない、聴くことの出来ない、触ることの出来ない、無形の存在なのに万物に対しては作用が在るみたいです。つまり、(物理の)法則みたいなものであるといった方がわかりやすいですね。


ですから『荘子』が書いた『道』を求めても得ることはできないという結論が出てきます。『道』をつかんだという人や、悟ったと言う人は、すべてインチキだということです。しかし、そうした境地に近づくことは出来る・・・これは、否定できません。一歩でも近づいたと言えば、嘘にはなりませんから。


以前、どこかでコメントしたことがあるのですが、最近ある本のコマーシャルが新聞にちょくちょく出ています・・・『求めない』とい題名の本です。広告には、ベストセラー何十万本!と大げさに書いてありましたが、笑ってしまいます。加島祥造氏の著作物だそうですが、(当方にとっては無名の方です。) これを見て何故笑ったのか?それは、説明するまでもなく『求めている』からです。つまり、その広告を読んだ人は、「誰もが読んでいるから、きっといいことが書いてありますよ・・・だからあなたの人生における何か良いヒントが見つかるかもしれませんよ。」などと想像させて・・・そして、チャリンと本屋さんでお金を落としてくれる・・そこのあなたを、待っている・・・。ということを思い浮かべたからで、それを書いた著者の加島祥造氏は、そういったことすら『求めない』達観された方であろうと思うからです。


では、『荘子』を書いた荘周はどうでしょうか?恐らく荘周は『荘子』に書かれているように『道』に近づこうとしてこの世を去ったのでしょう。するとこの置き土産の『荘子』は一体何なのか?という疑問が残ります。『道』に限りなく近づく・・・つまり無我の境地になって『道』と一体となることを求める人間にとって、己が考えていることを書き記すという行為は無我の境地に程遠く、近づいているのは『道』ではなく足跡ではありませんか?書き記すという行為は、それを読んでくれる対象を求めていることに他ならないと思います。だから、その足跡を当てにした読者までもが路を辿って迷ってしまうのです。


もし、人類すべてが荘周のような人であるなら、今日のような世界は決して出来上がらなかったでしょう。では、どうなったか?『荘子』の書かれた事をすべての人間が有言実行したならば、皆さん『原始人』のままかもしれません。欲が無く、『求めない』なんてことも云わず、お腹が空いたら食べ物を探し求め、無ければないで、しょうがないとあきらめ、澄み切った瞳で自然の厳しさと共に、そして人と人とが争うことも無く日々を淡々と生きていく、病気に掛かっても、事故で足を無くしても、そこで悔やむことなく、それはすべて己から生じたことだとして淡々と生きていく、そんな生活かもしれません。


誤解しないでくださいよ。『荘子』の書いてあることから勝手に想像しているだけで、この思想を否定しているのではありません。人にとって何が幸せか?の規定は存在しません。「幸せ」は、その人がそう思えば、そうなのですから、荘周の困窮した生活で、この思想ですから、おそらく幸せな人生を送ることが出来た立派な人だと云えるでしょう。そして、エネルギー保存の法則より、『困窮した生活』から『荘子』が生まれたと考えるべきだと思います。


若い頃読んだ、ドストエフスキーの「カラマアゾフの兄弟」を読んで以来、トラウマが出来ています。それは『権威者』、あるいは『権威』という存在はインチキだということです。当時の読後感に残ったものはそれだけでした。(また、読み直してみると漱石みたいに新しい発見があるかもしれません。)


ですから、こうした『荘子』などを振りかざして、人を煙に巻くのはどうも怪しい?と思うのです。加島祥造氏はNHK番組に出演されたとか?ですが、あの思索家の池田晶子さんは、『権威』あるNHKがPRした『ソフィーの世界』を『インチキ哲学』であると暴いてくれましたが、池田さんは加島祥造氏のことをあの世でどんな風に思っているでしょうか?


でも、当方は加島祥造氏の『求めない』という本を手にしていませんから、勝手な詮索は大変失礼かもしれません。ひょっとしたら真面目な良い本かもしれません。本を選ぶ時の先入観は禁物ですから。「求める為には求めない」そして「求めない為には求める」なんて、禅問答が書かれてあるかも?

ところで、池田さんの考えの中にも『荘子』と通じるところがありますね・・・でも、それを全面に出してやることは決してなされなかったですね。『荘子』の考えは、とても良いとは思いますが、「無用の用」ですから、生活とは掛け離れていて、How toものではありませんから、心の支えと思うのがよろしいと思います。


福田恆存氏が講演の中で、『立身出世』と『処世術』について述べられたことがありましたが、福田恆存氏は、面白い人ですね。そして、福田恆存氏の講演は皮肉たっぷりなユーモアがあって、なるほど!と思わせる話が多いですね。それで、先程の『立身出世』と『処世術』という言葉は、最近では敬遠されがちなのですが、彼に言わせると「身を立て、世に出ることが何故悪い!」とか、「企業にとっての戦略、戦術が、個人レベルでは処世術になるのに何故悪い!」と云う考えになります。むしろ、そうした技術は身を守るためには必要なものであると言い切っています。


こうした話は、それはそれで大変生きていく上で参考になります。しかし、『荘子』に書かれてあることとは、次元が違ってきます。おそらく、どちらも必要だと考えます。つまり、欲張った考えとして、「生きていく上で福田恆存氏の言われていることを実生活で取り入れつつ、時には『荘子』のような世間離れした考えも大切にして心のよりどころにする。」と云う生き方です。とくに、『荘子』のような考えは、例えば己の信念を貫いた結果が世間の評価として惨めな状況になったとしても、決してくじけない心、あるいはそれに対するアンチ・テーゼとしての考え方としてはとても有効であると思うのです。


カール・マルクスが、あの『資本論』をエンゲルスの力を借りて仕事を成し遂げたときには、あまりの困窮な生活で子供を失い、本人も最後は倒れてしまいましたが、経済学上のとても大切な発見をしています。しかし、当時の世間からは認められることは無く、その生活の厳しさは荘周と同じことだったでしょう。やはり、凡人と違って偉人はそれなりに生き方が激しいですね。


その『資本論』をもとに、「万国の労働者よ立ち上がれ!」といって、共産主義運動が起こりましたが、その大国ソビエト連邦が崩壊したことで、共産主義の失敗が結果として残りました。つまり、共産主義といっても出来たのは欲の深い人間で出来た専制政治による恐怖政治です。人間は畢竟、理論やロジックなどより、『欲』と『情』の方が動く上でウェイトを占めた動物なのです。


残る、世界最強の共産主義国となった中国は、日本に対して侵略国のレッテルを貼っていつもそれをネタに日本を揺すっています。そして、その中国がチベットを侵略してチベット民族を未だに弾圧を加えています。(荘周が泣くぞと言いたいところ。) しかし、中国は国内では、支配階級と労働者との経済的待遇がまるで違っていて人民の貧困は解消できていません。つまり、共産主義理論とは関係なく、人はやはり『欲』と『情』で動くからでしょう。


今日まで、多くの思想家を輩出した中国が何故こんな状況なのか?それは、やはり『言論の自由』を封印してきたところから、おかしくなってきたと思います。もし、中国に真の『言論の自由』があったならば、恐らく経済や科学技術などすべての面で、もっと以前から日本以上の発展を遂げていたと思います。


話が脱線したところで、ごく身近な生活では、生協がスーパーなどとは違って、消費者の立場に立って安全、安心な物を供給するといった差別化戦略に則った理念を掲げていながら、昨今では、『安全、安心?』のトラブル続きです。人のやることなすことに、理想や理念を掲げてやることは良いことなのですが、裏では必ず、『欲』と『情』が渦巻いている世界が在るということを知った上で生きていく必要があります。その為には当然処世術も必要でしょうし、その上でさらに、『荘子』の考えを自己流に解釈して心の糧として生きていくと面白いと思います。


宮本武蔵のように、そうした二刀流でこの世を生きていくと云うことになりますか?


by 大藪光政