この書物は、約250ページ足らずの書である。
荘子の思想を解説するには、その紙面では厳しい。こうした中国の古典における解説書の中には、漢文を載せてその読みとして古文調にしたものを並列列記し、さらに現代訳を付け加えて最後に著者の見解を述べるというパターンで書き上げているようです。
そうしますと、かなりのページになる。例えば、森三樹三郎氏が書いた荘子(中央公論新書)は、上下2巻で約900ページにもなっている。すると、今回私が読んだ中島隆蔵氏が書いた荘子は、その約4分の1程度となります。
そうなりますと、必然的に漢文は未掲載 (もともと読めないからよしとして・・・)で、代わりに古文調のものが掲載されていますが、その古文調に対する解説は、解説といった感じではなく、引用してその補足といった感じで、きちんとした翻訳ではありません。
従って、読者には古文調を理解する古語力が必要になってきます。文系ならともかく理系の人には、今更古語を勉強する暇もなく、結局あまり文章を摑み切れない状態で読んでしまう羽目になります。
すなわち、荘子の思想を触れる前に、古文調に対する読解力という壁があって難解さが増すことになりますが、私は逆にその方が結果として良かったかな?と思う気がしました。
この中島隆蔵氏の荘子が読みづらく、わかりづらかったので、前述の森三樹三郎氏が書いたものを覗いてみると、とてもわかりやすい内容であると感じたからです。そして、他の荘子の書物をちょっと開いてみても難しく感じなかったので、それならば、色々な荘子の本を読むことで、本質に迫ることができるのでは?といった期待感が湧いてきました。
前置きが長くなりましたが、結論としてこの他にも他者が書いた荘子を読んでみる気になったのです。それは、云うまでも無く、わかりづらかった古文調が混じった解説書をおぼろげに読んだだけでも・・・荘子の面白さに惹かれる・・・そんな魅力が、『荘子』にはあると感じたからでしょう。
『荘子』には、日本人の誰でもがよく知っている、『朝三暮四』といったことわざの出典があるように、日本人の考え方にマッチングした思想ではないかな?といった感があります。つまり、日本人の心に響く何かを持っているといったニュアンスを抱いたのです。
ですから、初めて出会った思想とは思えないところがあります。心に響くとはすなわち、共鳴できるものがあるということでしょう。知らないうちにそうした『荘子』の考えが染み込んでいる・・・と思うところは、私だけではないでしょう。
中島隆蔵氏が本の中頃に解説している箇所で、「多事多端の人生模様を織り成す人間の価値分別、これを行う者は、まさしく、それぞれの我れであるのだが、この我れは彼があってはじめて存在し、彼が我れに先立って在る、ことが知られる。だが、この彼は、それぞれの我れの外に超然として存在し、それぞれの我れをそう在らしめている真宰ではなく、じつはそれぞれの我れに固有する自然必然のさだめにほかならない。」といった解説のくだりがあります。
これには、考えさせられましたね。例えばここに書かれている『彼』を『神』、或いは創造における真の主宰的存在、と仮に当てはめてみると、己が行う価値判断はまさしく己自身であるが、この己は、神があっての存在である・・・その創造主は、己より以前の存在である。そしてそれは超越した存在なのだけれども・・・つまり、この後が問題なのです。
「 己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」というのだけれど、そうなると、『神』と『己』との立場構成が違ってきますね。つまり、『神』は『己』に先んじてはいるが、『己』を創造してはいないことになります。
それか、最初は、『神』が創った『己』ではあるが、あとの『己』の行動にともなうすべては、「己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている」ということになるのか?それとも、最初から、『神』は、『己』に対して存在として先んじているだけで、『己』に対しては創造的発生時点からノータッチということなのか?ここがわからない!
どちらにせよ、出来てしまった己は、自己完結型の人間ということなのか?つまり、すべての行動に対してたとえば、降りかかる火の粉もそれは『彼』の仕業でもなく、己の持つさだめということになりますね。ここでの『荘子』は、『彼』と云う物に対する考えもわからないところがあります。
そうなると、己が感じる『彼』と、『己に固有する自然必然のさだめ』とは何か?ということになります。己の中には、たとえば『神』、『仏』、『悪魔』といったものが同一として在ると考えれば確かに、『己に固有する自然必然のさだめ』は、当然己の中にて起きうると云えます。
その考えを飛躍させると、己に掛かる事象はすべて己によるものと云うことになります。そうすると『彼』の役目は一体何なのでしようか?いや、『役目』と言うより、その『存在』はいったい何のためにあるのでしょうか?ただ在るべくして己より、ただ先んじて在るというだけなのでしょうか?
一般の市民生活の中で、起きうる次のような事件があります。ある幼い純情な小さな子供が通りを歩いていると、誰でもよいから人を殺したい殺人鬼に出くわして、何の罪も無い、そしてその殺人鬼とは何のかかわりもないのに殺害されてしまうニュースがありますね。
この場合も、この子供にとっては「 己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」と云えるのでしょうか?もし、この子の母親にそんなことを云ったら母親は何と答えるでしょうか?そんなことを考えると、もし本当にそれでも「 己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」であるならば、あまりにも無常ではないでしょうか?しかし、人生は無常なものだと言ってしまえばそれまでなのですが、またこのような事件が起きうる事自体が逆に、『彼』の関与はまったく無いということを証明しているみたいで考え込んでしまいます。
自業自得的なものであれば、「 己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」を受け入れても違和感はありませんが、そうでないものすらそれがあるということ・・・そのことで引っかかるのです。
生きている以上、自己の及ばないところで運命が決まってしまう・・・そんなことすら、「 己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」となっているのだろうか?
それとも、こうした見解は『荘子』の考えに対した勝手な解釈ズレだと云うのだろうか?
その辺の検討は、『荘子』を書いたと言われる、荘周さんの話をもう一度別の翻訳者で読み直す必要がありそうです。
by 大藪光政