楠山さんの『老子』の解説は、大変わかりやすく面白い。それは、『老子』に関する自身の見解を述べることを主とされているからでしょう。資料だけの引用だとか、解説ですと読者にとっては、辞書を読むみたいで、窮屈です。
『老子』の書は、わずか五千数百文字の小冊子だそうですから四百字詰め原稿用紙だと、わずか十五枚以内に収まっていることになります。それだけの小冊子で後世に様々な波紋を呼び、それについての関連本が数多く出ているのは不思議な限りです。
それが他に無い、『老子』の特徴といえるでしょう。そしてその漢語で濃縮された文章は、ある意味でいかようにも解釈がされてしまうところがあります。漢字は象形文字ですから対象物に対しての表微ですので、その対象物すべてを表現するものではありませんから、解釈が十人十色でしょう。特に抽象的な表微であるとそれはもう雲を摑むようなものです。従って解釈を巡って『老子』の思想にゆらぎが出てくるのでしょう。
また、『老子』を書いた実在人物が『?』ですから話はやっかいです。老子という固有名詞の人物は存在しないからです。そこで、『老子』は、不特定の人たちが書き上げたという説と、匿名で書かれたがその人物はいたという説、そして『史記』ではその老子が、姓が李、名が耳、あざなは、聃(たん)という・・・として紹介されているが、これも怪しいとのこと。
こんな状況ですから、どうしても『老子』を語るときは、ある程度読む人の想像でまとめて行かないとどうしょうもなくなります。楠山さんの本には、それがあるから面白く読めるのです。漢文がまったく読めない人にとっては、訳した人の気持ちが入った内容を、真偽は別として、それを理解するしかないでしょう。
そして、そこから自身の解釈を新たに求めていくしかありません。つまり己の『老子』を見出すべきでしょう。また『老子』は、孔子や孟子のような現世的な考えとは次元が異なっています。ですから形而上の想像を他の思想と比較しながら思考していくことが大切であると思われます。
つまり、現代の私たちがこうした思想家の考えを読み解いていく時、それぞれの考えを包括していけば良いのではと思います。そして、包括していったところから弁証法的手法で一歩、自身の考えが歩み出せればそれで良いのではと考えます。
『老子』の教えるところは、極論ですが自然の法則だと思います。ここで、『自然』という言葉を使うと自然とは何か?になってしまいます。ですから普遍的法則とした方が納得できます。
『老子』は、形而上学を説いた内容みたいですが、「柔弱謙下」のような言葉で表すように、「柔よく剛を制す」みたいな現世的な役立つ考えも持ち合わせています。
しかし、多くは『道』といった捉えどころの無い考えから、様々な形而学上の思考で戒めとしています。この『道』とは何かと言うと、本当は『 』ですから・・・(空白ではありません) 文字で表現できないものだけど、とりあえず『道』という名にして説明しているみたいですが、正体不明の人物が、正体不明の"作用"を『道』と云っているので厄介です。
もちろん、楠山さんの書いた『老子』を読んでも、それを摑めることは出来ません。もし、摑まえたとしてもそれは人が理解できる、『道』であって、『 』ではないでしょう。
『老子』を書いた著者は、皮肉屋さんでもあります。例えば「法令滋ます彰らかにして盗賊多く有り」つまり、法律が出来ると盗賊が増えるみたいなことを云っています。これは笑ってしまいます。盗賊が増えると法律が増えるのではなく、その逆ですから面白い。ある意味で、どちらも真なのですが、 『老子』を書いた人は、そんな逆説がお好きなようです。
『老子』に書かれているものは、普遍的法則を活用したものであると気付いたのですが、それを西洋では、定量的、定性的分析手法と数学のツールによってその法則を発見し、物理学や化学などの自然科学としての学問体系を築いています。
『老子』を書いた人がやろうとしたことは、そうした普遍的法則を式として表微することではなく、現世の問題から普遍的法則を嗅ぎ取ることで、逆説的な真理を突いたといえるような気がします。本人は気付いていませんが、物理学で云う『エネルギー保存の法則』をかなり駆使した名言を吐いています。
物理学をやっていますと、普遍的法則は物質の現象だけに適用されると思いがちですが、どっこいそうとは云えないことに気付かされます。位置・運動・熱エネルギーの法則、そして『エネルギー保存の法則』は間違いなく人間の行為にも適用されると想像できます。
水は高いところから低いところに流れる(位置エネルギーと運動エネルギー)といった事から、『老子』の格言めいた出典がありますし、その他当てはまることは多々あります。また、私が旧来からとくに思っていることは、「何かを得ようとすれば何かを失う」そして、「何かを失っても、何かを得ることができる」 これは、まさに『エネルギー保存の法則』の法則でしょう。そしてそれを、『老子』の中から見出すことができます。
当時の諸子百家は、現在の企業コンサルタントみたいな仕事だった気がします。どこかの国(企業)の王(社長)に戦略、戦術あるいは国の政治、経済の運営に関する助言をする立場にあったと思います。但し、現在のコンサルタントみたいに掛け持ちはしてなかったみたいです。それで、召抱えられた国から見放されるとたちまち、困ってしまう状況だったと思います。その職にあった孔子や孟子は儒教としての葬祭セレモニーも兼ねたところがあったようですが、それでもあまり諸国から相手にされなくて晩年は寂しい人生で閉じたようです。
『老子』を書いた人物は、もっと惨めな境遇だったと推測できます。おそらく、当時人気があって優遇されたコンサルタントは、How toもので”売り”をして現在では無名になってしまったということでしょう。『老子』を書いた人物は、苦境でも己の思想に対する探究があったと思います。それだから、この『老子』が生まれたのでしょう。つまり当時、報酬や高い地位を確保することは出来なかったが、日々怠らず己の思想を研鑽することで現代まで足跡を残すことが出来たといって過言ではないでしょう。
所謂、『エネルギー保存の法則』により、位置エネルギーは低くなったが、運動エネルギーとしてそれを補完することで平衡が保たれたということになりますね。ですから、愚痴って何もしなかったら・・・自暴自棄の運動エネルギーに変化するだけということになりますか?
散歩していて、『道』つまり『 』の正体を色々想像して見たのですが、何気なく道に並んで植わっている並木をじっとみると、人工的に植えられた木ではありますが、アスファルトばかりの環境でもいじらしくなんとか育っています。その木をさらにじっとみると、結局万物は『熱』によって変化していると思うのです。
気温の変化で自然の植物は、多様の変化をするし、滅亡さえします。恐らく人類も滅びるとしたらその環境温度の変化による起因が大でしょう。宇宙の生成は想像を超えた熱による変化でしょうから、すべて『熱』の仕業と云えます。では、その『熱』の正体は?つまりエネルギーの正体は?ということになります。物質はエネルギーの塊ですから、物質が存在しない世界ではエネルギーも存在しないということになりますから・・・話はだんだんややこしくなっていきます。
『老子』を書いた著者は、自身の苦境と自然が醸す普遍の摂理から嗅ぎ取ったところを、うまく文字に託せないもどかしさで、この五千数百の文字に謎を掛けたのでしょう。
これをあなたがどう紐解くかは、訳本で読むだけでなくこれを己の思索に活かすことで初めて、あなたの『老子』が新しく生まれるのではないでしょうか?
by 大藪光政