欄の花



図書館に志賀直哉の記録ビデオ(NHK作成)があったので、それを見ました。


何やら、ヒゲを伸ばした文壇の長老といった感じでした。聞き手は河盛好蔵でしたが、何だか腫れ物にでも触るように恐る恐るしたぎこちない質問をしていました。ゲストに武者小路実篤と志賀直哉の子供さんが二人、(といってもかなりの年配になっていました) 父としての志賀直哉について質問に答えていました。武者小路氏は高齢で生気が無く、少しボケた感じがしました。


このビデオは、NHKの番組収録でしたので少ししか志賀直哉について理解できませんでしたが、その中で長編小説としてこの『暗夜行路』が紹介されていました。この小説の題名をもちろん昔から知ってはいましたが、読んでいませんでした。また、彼の作品は現代国語の教材にもしばしば出てきていて、小説の神様との異名をとる程でしたので志賀直哉の名前だけは知っていたという程度です。


『暗夜行路』という作品の題名を見ただけで、何やら暗い雰囲気がするので読む気にはなりません。でも、ビデオではかなり年月を(約十七年近い)掛けて作者が完成させた・・・との触れ込みがあったので、どんなものかと読んでみる気になりました。


この本に対する事前の知識が無いまま読んで行きますと・・・なんだぁこりゃ!私小説か!と、最初に思いました。そして、暗い話か・・・と思っていたら、どうも主人公の出生の秘密は確かに不道徳的で暗いものがありますが、文章を読んでいっても主人公もそしてその描写もタイトルが象徴する暗さを感じません。何故だろう?


そして物語の前半に、謙作が日記を書くシーンで、唐突にも自然環境問題と人類の課題的な話が出てくる、また、なんだぁこりゃ・・です。その突然のエッセーで、放蕩を尽くしている主人公とそれがまったく違和感をなしています。しかし、内容的には今の新聞に投稿しても決して陳腐ではないので志賀直哉の感覚は鋭いです。あとで、調べてわかったことですが、足尾銅山鉱毒事件に関心を持っていたということですから、この日記の挿入エッセーは頷けます。


ところで、作家と『暗夜行路』の作品が入れ子構造になっているのに気付きます。つまり、作家→主人公→小説の中で主人公が作家→その小説の中で主人公が自身の自叙伝を書いている。もし、これが本当の私小説すなわち自叙伝ならば、入れ子状態ですね。(この入れ子構造は、作者の実情を知らない読者を騙すにはうまい手法です。)


この小説を読みながら、どうもこの小説が好きになりませんでした。この主人公には、不幸な過ちをもった母と、自身の妻までもが同様な過ちを犯してしまったといった繰り返しの不幸を扱っています。そうした不道徳なるものをネタにして告白的私小説を書く作家というのは・・・気が知れない!それでは、まるで露出狂ではないかと・・・。


つまり、道徳云々の以前の問題だと思ったからです。しかし、この小説の作家のあとがきを読むと、私小説を装ったものであることがわかり、なるほど・・・とは思いましたが、後味の悪い小説だと思います。


また、あとがきには、漱石とも親しかったようで、漱石から東京朝日新聞に出すように再三進められ、新聞投稿の注意として新聞は続き物ゆえ、豆腐のぶつ切れは困る・・・といったアドバイスまで受けながら、結局出稿を断念した経緯まで書かれてありました。


本の巻末には志賀直哉に関する阿川弘之の講評がありました。志賀の文章については、漱石の門下である芥川が「どうしたらああいう文章が書けるのでしょうね・・・」と漱石に問うたら「思うままに書くからああいう風に書けるのだろう・・・」と答えたと云われています。


そして高く評価されていると聞きますが、どうも疑問が残ります。(阿川弘之は、志賀の門下ですからヨイショがあって当然でしょう) また、そういった逸話には、嘘が多いからです。ひょっとしたら漱石と芥川は皮肉を込めていたとも解釈できます。第一、芥川みたいな人物がHow To的な質問を漱石にするでしょうか?どうもおかしい?もし、本当に云ったとしたらそれは皮肉として受け取った方が正しい気がします。


つまり、『思うままに書くような文章は、ただの大人の作文ですよ』と、聞こえてきます。事実この『暗夜行路』を読む限り、そのような文章が多いですね。『暗夜行路』を読んでいて、少し絵になっているのは尾道の描写と大山の描写ぐらいです。内容的には間延びした退屈な大人の作文的なところが多々あります。そして、テーマが不幸な過ちに対する『許す』ことの心の葛藤だとしたら・・・長編小説なんぞでなくても短編で書けるはずです。


この小説を小林秀雄や河上徹太郎が、これは恋愛小説だと言っているのをあとがきの中で紹介しているが、本人はそれはそれでうれしく思ったと書き記している。その意味は、『許す』という行為に対する悶々とした人間の悩みについてのテーマが、ここではうまく仕上がらなかったとも受け留めれます。


ただ、この長編小説は昨今のくだらない小説みたいに、何時終わってもいいといった内容ではなく、病床についた主人公と妻との再会シーンまで結末に惹かれるそうした繋ぎと、後は謙作と妻との『許す』ことについての結末を読者の心にゆだねるといったぼかしは、しっかり考えてあります。


あと何故、この作品が作家にとってあまりに長い時間を要したのか?それが謎です。この小説は結局、漱石が亡くなった後、発表されています。これは作家の私生活と密接に繋がっているのかもしれませんね。つまり、発表する時期といったものがあったのかもしれません。


当時、文学小説に対する様々な考えがあったと思います。
道徳的なものを書くことも、不道徳的なことを書くことも、或いは自然そのものを絵のように描く小説も、そして今回のように私小説めいた小説でも、それが文学と言ってしまえば文学でしょう。


また、それだけでは文学とは言えないと云えばそうかもしれません。別に『文学』という言葉には細かい定義がないからです。『文学』という言葉はあっても、『文学』という実体そのものは存在していない。在るのは文字で綴る人間の生き様として表微された、写し絵でしょう。


しかし、その中にやはり普遍として共感できるもの、或いは感動するものがなければ、それはただの糞の垂れ流しになってしまいます。


『暗夜行路』は、後味悪い作品だとは思いますが、強く印象に残る作品ではあります。そういうところでは読者をうまく捉えることが出来ていると云えます。他の作品を読めば志賀直哉のまた違ったところが見えてくるかもしれません。うまく騙された者にとっては、もう一度志賀氏の生んだ小説に触れる必要があるのかもしれません。


また、小説を読むときには、その作品の色々な細かい予備知識を持って読むことなく、真っ向から向かい合って読むことが一番、インパクトがあっていいと思います。


今回、しっかり志賀直哉に騙されて・・・大変勉強になりました。


by 大藪光政