仁王像




養老孟司氏の書物は、氏がまだ有名になっていない時に、読んだ記憶があります。解剖学者としての面白い考えを述べていた本だったと記憶しています。また、対談の本も読んだことがあります。


しかし、彼のベストセラーである『バカの壁』は、今も読んでいません。天邪鬼ですから、ベストセラーだから読むということはないのです。


では、なんでこれを読んだの?と聞かれましたらこう答えます。


「図書館で偶然、目についたのです。バカの壁が目につかないのは、まだ人気があって借りる人が多く、書棚に戻ってこないからでしょう。そして、この本を借りようかと少し考えました・・・養老孟司は、思索家の池田晶子さんから彼女の名刀で一度切られたことがあります。その後、養老氏がそのことについて池田さんに氏の考えを補足することで、池田さんとの論議が決着したようですが・・・それで、たまたまテーマが『死』に関する内容だったので,どんなものか好奇心でつい手にしてしまいました。」


と、こんな風に答えます。この本は、口述筆記で書かれたもので、『バカの壁』もそうだったようです。そしてこれを文章化したのは後藤裕二氏とのことです。養老孟司氏は、口述者なのですから、この本の表と裏にはっきりとそのことを明記すべきだと思います。そこが少し問題です。


孔子にしても、ソクラテスにしても口述したのをその死後に弟子が書き残してくれていますが、それとは違っているようです。本人が書こうと思えば書けるのにわざわざ口述という手法をとられたのは何故でしょう。想像ですが、便宜的にそうしたとしか思えません。


口述であることを後書きに述べる程度で、本の表と裏に明記しなかったのは何故でしょう。出版業界の人の話では、本の著者を複数にすると読者に対する訴求のインパクトが弱くなると云われています。それに近いものがあるからでしょうか?


さて、本の内容ですがテーマとしての『死』に対する『壁』を色んなものの考え方を駆使して書かれていますが、当然『死』についてはわかるはずがありません。そして、その『壁』すら、規定することはできません。


では何故そのようなテーマを選定して本にしたのか?それは、ベストセラーを狙っているからでしょう。まあベストセラーとまでは行かないまでも、本がたくさん売れることを出版社と共に企むからでしょう。これは、別に悪いことではありません。商売ですから、それが悪いと思われる方は、買わなければよろしいのでしょう。


この本を買われたか或いは図書館で借りて読まれた方は、この本の内容については容易に読むことができたと思います。内容的な書き方は、現代の社会的現象を取り上げて分析し・・・こういう見方があるのだぞ・・・といった調子ですべて展開されています。


それを読んでみるとなるほど、そんな見方考え方があったのか!と思って感心します。そういう意味では、『頭の体操本』としてはとても良書だと思います。頭が硬い方にはお勧めの書だと思います。そして別に間違ったことは書かれていませんので何の害もありません。頭にとって良薬です!


学者の方は分析と観察がとてもお得意です。それは、ちょうど人々が月の表ばかりを見ていて、月の裏側を知らないで月を物語ることに対して、「月の裏側は隕石がぶっかった穴ボコばかりです」と自身の観察と分析結果を誇らしげに解説されるのと同じようです。


すると、人々は今までの見てきた『月』に対して興ざめする方もおられますし、「なるほど・・・月にはそんな一面もあったのか!」と感心される方もおられましょう。


しかし月の裏側の一面を紹介されても、その『月』はすべての人々にとっては依然として謎です。それと同じでこの本を読んでもその『壁』でさえ、わからないのは養老氏のせいではありません。『死』そのものがわからないのに、その『死』の『壁』がわかるはずがないのです。そんなことは論理的にあたりまえでしょう。この本を買えば、『死』を知ることが出来なくてもせめて『壁』ぐらいは知りたいと思って買われた方、残念ながらはずれでしたね。


科学は現在も、『月』に対して果敢なチャレンジをしています。最近、ハイビジョン映像で日本が撮影しましたが・・・。そしていずれ人類は、月にまた訪問して今度は月面基地を作り、月の表面と内部を調査するでしょう。しかし、それでも月のすべてを知ることは不可能です。でも、人間は何故か『月』でなくても、『死』でなくても、要するにわからないことはすべて知りたいものです。


こうした類いの書物は小説などとは違って創作的なものがありません。世の人は『A』であると思っている、しかし私は、『B』といった考えを持っている・・・とか、こういうところを世の人は知らない、或いはわかっていない・・・とか云って色々と親切に教えてくれます。こうした類いの本の著者は皆、様々なジャンルの古典物の本を読んで勉強したり、いろんな情報を取得したりして、そうしたデータベースを元に自身が積み上げた論理でもって整理して書いていっているはずです。


しかし、小説や詩などを創作する作家は異なります。作家が世の中を、そうした観察や分析でもってわかったこと、感じたことは、決してその舞台裏を見せることなく、桧舞台でそれを登場人物に云わせたり、それがナレータとしての発言だったりします。そして、それをイマージュとして捉え、理解し且つ、気付いた読者に対してのみ、その読者の脳裏には作家の魂が再現するのです。


なんでも手っ取り早く、わからないことや知りたいことを学びたい、そうした要求であればこうした『死の壁』みたいな本を読めば手っ取り早く入手できます。でも、それって自身の血となり肉と成るにはちょっと難しいかなと思います。それは、プロ野球の選手の活躍をテレビで見るだけと同じですから、左程身につくはずがありません。しかし、楽しむだけであれば、これで十分なのでしょう。


孔子は弟子から死について、『死』とはどういうものかを聞かれたとき、現在生きているというこの『生』さえわからないのに、経験もしていない『死』がわかるはずがないといったそうですが、それはちょうど、我々が住んでいる地球すらまだわからないことが多くあるのに、行ったことの無い月なんぞわかるはずが無いといっているのと同じですね。


でも、この間の月探索機『かぐや』からの月から見た月と地球の光景を見ますと、まさに、地球が『生』で月が『死』といったイメージが湧きました。索漠たる月の地表に浮かんだ地球、なんだか見てはいけないものを見てしまった気がします。


やはり月は文学で語るべきかな・・・と思うのと同じように、『死』についても小説やポエムから感じ取った方が救われる気もします。


by 大藪光政