この作品は、漱石が見た夢を脚本化したものみたいになっていますが、この作品を元にフロイトの精神分析手法を用いて漱石の精神を分析した人がいます。その方は前置きとして、この夢が「漱石が実際に見た夢とした場合の分析である」と前置きされて延々と分析をされています。
それを少し拝見しましたが、なんだかおぞましくなりました。この作品は漱石が新聞に作品として公開したものですから、もしこれがすべて彼自身の夢を題材にしたものとしても、必ずそのまま載せることはしないでしょう。それは日常の出来事をそのまま文章にしても文学とは云えないことと同じです。
であれば、夢からのヒントはあったにせよ、やはりこの作品は創作です。それとひょっとするとこの中のいくつかは、近親者からの夢の話をヒントにした創作であるかもしれません。そうしたことから、如何にこの作品をフロイトの精神分析手法で調べつくすことが出来ても意味の無いお遊びだかおわかりでしょう。
小林秀雄は大学生への講演で、フロイトの精神分析については評価しています。そして小林は精神異常者を対象にして人間の心の病が脳(脳物質)、の病気ではなく精神(記憶)の病であることを発見したと付け加えています。ですから、ここではフロイトに関することを否定するつもりはありません。
前置きが長くなりましたが、この作品の最初の第一夜の『こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が…』 を読んでハタと気付きました。これは女性が死に際に百年待ってくれと男に約束をするのですが、この男は漱石で・・・その女は小鳥だと思いました。それもおそらく漱石が可愛がっていた文鳥だと思うのです。
その理由は、女が真珠貝の殻で土を掘って私をそこに埋めて欲しいと頼む場面があるからです。これは、実際は漱石が飼っていた文鳥が死んだ時、園芸スコップか・・・何かで掘って埋めてあげた経験から来ていると直覚します。ひょっとしたら本当に貝の殻でしたのかもしれませんが、真珠貝というのは装飾して文章を盛り上げていると思います。
何故そう思えるのかといいますと、漱石よりも数多くの小鳥やリス、猫、犬にいたるまで愛していた小動物が亡くなった時、いつも丁寧に埋葬してあげている経験からそう思えてならないのです。皆さんの中で金魚を飼っていてその金魚が死んだらゴミ箱に捨てますか?おそらく土に埋めてあげるでしょう。そして小さな墓標をつけてあげるでしょう。そうした漱石のこころもちがわかってみると、漱石もそういうやさしさがあるのだなあと思います。
そして、この一夜の締め括りで白いゆりの花が咲いたところで終わりますが、ここではその女、いやその小鳥が白いゆりの花と化して生まれ変わってきたというのは輪廻転生を想像させます。その転生は動物から植物ですから万物は皆、同じ魂から出来ていると思わざるをえません。
こんなにとても短い第一夜なのですけれど、考えてよく読めば深い内容を含んでいます。そしてこの第一夜は、実は漱石の夢ではなく、夢のような形式で書かれた創作だと思います。それは形而下の世界を文学の力で形而上の世界へと昇華させたところにあると思えてならないからです。
この作品は、三四郎を書く前の年ぐらいに発表されたものだそうですが、漱石が大学の教職を捨て朝日新聞の社員として小説で身を立ててからすぐですから、己の文才を世に発揮せしめんとしたところもあるような気がします。
前回、『三四郎』にては、金魚鉢を観察したような作品だ・・・と言いましたが、失礼したなと思いました。それは、やはり漱石の転職については深刻な不安がつきまとったのでは・・・と、同情したくなるからです。近似的ですが大手企業の職を捨てて、裸一貫で独立した経験がある方には・・・きっとお分かり頂けると思います。
図書館から借りてきて、読み終えたこの夢十夜の本を、家人が無断で持ち出して電車や待合の場で読んだことがあとで発覚したのですが・・・「この本、絵本になっていたので・・・わかりやすいだろうと思ったのだけど・・・少しわかるところの話と、さっぱりわからないところの話があって・・・なんだか?さっぱりわからないわ!」といった感想でした。
それを聞いて、無断で持ち出したのに驚くことより先に思わず笑ってしまいました。それで思ったのが、確かにこれは大人の童話みたいなところがあるなと。漱石はそういった洒落たところも持ち合わせている。そして、わけがわからない話は、おそらく自身が本当に体験した夢を素材として創りあげた作品ではあるまいか、と考えるのです。
第六夜の『運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから…』 という話は、昔聞いたことのある話です。彫刻とは、木を削って作り出すものではなく、もともとその木の中に埋まっているものを掘り出すような技で出来るのが一流の彫刻家だと言う話を聞かされたことがあります。つまり、仏像であればその仏像が木の中に埋まってある・・・それを取り出すように彫るのがプロとしての彫刻師であると。
恐らく、そういった話は漱石が初めてではなく、昔からあった話かもしれません。これはある意味で芸の境地を漱石が語ったものでしょうが、この夢は夢からのヒントではなく、そうした彫刻名人の話を伝え聞きしたものを創作したように思えます。こうしてみますと漱石は、かなりいろんな方と交流のある文化人ですね。
わずかな短編も、こうして想いをめぐらしますときりがありません。人はもともと夢に生き、夢に終わる唯一の動物なのでしょうが、日々に見る夢には、つらい生活から開放されたいという願望を暗示させる夢、普段とはまったく違った行動をとってしまった夢、本能のまま描いた夢、エンドレスで空転している夢、それらは本当に人生と同じく色々です。
人は故人としての漱石と同様に、現代生きている私たちも、実は現実という正夢に悩みつつ生きて行かなければ行けない運命にあるわけです。また夢の中の物語が意味不明で、現実だけが確かだと思うことに疑問を持つ姿勢も大切なような気がします。それは現実が実に不確かなものであるからです。
何故って、それはあなた・・・明日のあなたがどうなるかは、あなたにも絶対わからないでしょう?たった一日先のことなのに!
by 大藪光政