バラ4




加地氏の孔子を最近読んだことがきっかけで、中国哲学に興味を抱きました。

工学部出身ですが、教養選択では哲学を選択しました。授業に際して買わされた本は田中美知太郎の『哲学初歩』でした。ところがなんと学んだのは中国哲学でした。

 

学んだ内容は陰陽哲学や易学の八卦だったと思います。結構面白い講義だったという記憶があります。今回手にした本は、『朱子』に関する本ですが、佐藤氏は加地氏みたいに脚本されていないので、朱子の背景記述が主体で、佐藤氏の考えは控えられています。

 

前半では、朱子の先生である劉子翬が『論語』に出てくる「古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす」(憲問篇)という教えを授けたところに目が留まります。今風に言いますと、受験勉強などは自分の能力を人に知ってもらうための勉強であって学問とは言わない・・・その点、己のためにする学は視点が違って学ぶことで自己形成をなすというところでしょうか?

 

考え方によれば、どちらでも自己形成そのものは、なされますが目的意識が大切ということでしょうか?これは、別に学問だけでなく、仕事でも同じことでしょう。若い社会人の前で、「会社のために仕事はするな、自分のために仕事をせよ」と言ったことがありますが、それと同じニュアンスだと思います。

 

この本で重要な箇所は十三章、朱子の思想のところです。しかしたくさんありますのでここで述べるにはちょっと大変です。まず引用してみますと、儒学者が人間最高の境地とみなすものに『誠』がある。いっさいの作為を捨てて、真理そのものになりきった境地のことである。

 

これを読んで、まず思ったのが「おっ、新撰組の『誠』だな・・」と時代劇を思い出しました。すると新撰組は、この誠を掲げながら敵対する相手を殺しながら、結局は時代の流れに流されて、消滅してしまった。それが誠なら、真理が現実に破れたということになり、その真理は偽物ということになりますね。すると新撰組の『誠』とはいったいなんだったのかな?といった雑感を抱きました。

 

よく『誠意』を尽くすという言葉を吐きますが、これを忠実に解釈すると真理を体得した上で意を尽くすということでしょうか?すると現代ではあまりにも、真理を体得することなく気安くこの言葉を使っている気がしますね。

 

次に、何が善であるかを明確に認識するための重要な方法として『大学』の「格物致知」をあげていますが、これは解釈が多くあるみたいです。ここでは格は至で、物は事。「格物」とは、事物の理に窮め至ることであるとしています。よく、格物窮理と熟して用いられることもあるとのことですが格物がすなわち窮理なのだそうです。

 

  < 『窮』の言葉は、奥義を窮めるといった使い方をします。 >


『大学』で窮理といわず、格物といったのは、物といえば当然そのなかに理が含まれていてここでは、朱子が父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友といった人間関係や、その人間関係のなかで営まれる様々な事柄から遊離して、仏教や老荘などの格物のように、いわば抽象的観念的なものになってしまい、格物が空理空論に陥ることを恐れたからだそうです。

 

つぎに、「致知」ですが、致は推し極めること、知は知識のことで、ごく当たり前の知識から出発してそれをさらに推し進めて、万事万物の理を余すところなく知り尽くすという意味らしい。

 
この辺の理解の仕方として、いろいろ事例がありました。善くないと知っていて、それを行うことは本当に善くないということがわかっていない・・・と。 この辺は、三島由紀夫が好んだ葉隠れの「知行合一」と同じこととして捉えられますね。

 

こうして書いていきますときりがないですね。朱子は、孔子と同様に現実主義者であったことを知りました。そして朱子の時代もやはり人民の暮らしにおける税の問題と政治は、大切な課題であったことから今の時代を見回すと内容こそ違いはあれ、なんだか堂々巡りをしているみたいです。

 

何故、税の問題と政治の腐敗などの社会的問題が、いつの時代も相変わらずあるのか?は、生物としての人類は、一過性の生き物であるから体得しても、実経験として継承することは出来ないからです。そうした問題を解決する考えを、どんなにすばらしい教えとして孔子や朱子が弟子に伝えたとしても、所詮それは知識で留まるので、伝達は出来てもその意味を経験するまで、それを知りえた人すら『知行合一』に至らないからでしょう。


ところが、科学は知識の積み重ねで気が付いたときには、自然界にも無いようなものまで、作り上げる力を持っています。巨大科学は、一人の人間ではとても実現しないことを具現化していきます。科学はどんどん進歩しますが、人間の場合は生物ですから進化というスタイルで、気付かないようなスローな時間で移行します。そして、それは進化ではなく、退化だったりします。

 

現代の混迷は、実はそこにあるのかもしれません。科学をコントロールしきらなくなった時、人類の悲劇が訪れるのかもしれません。その時、人類を救う言葉は意外と古人の教えかもしれませんね。

  

ところで漢字の持つ意味を推測した時に、いかに日本は中国に大きく影響してきたかを思い知らされます。我々日本人は、日本語を日常当たり前の言葉として使っていますが、漢字ひとつをとって見ても、中国古来の考え方から由来していることを知らされて、言葉を使う上において浅はかなところを恥じる思いがします。

 

日常の礼儀だとか、冠婚葬祭においても儒教の影響が大であることがわかった時、改めて中国という風土と人々の考え方などを知る必要がありそうです。しかし、ただ感心していても始まりません。こうしたことを学ぶのは己のためということですから、これからの生きる指針になるものを取捨選択して、向上心として役立てなければという気持ちです。

 

by 大藪光政