文学小説を読む機会が少ないのですが、このあいだ図書館で、三島由紀夫の本を手にしました。題名がなんと『命売ります』ですから、彼の作品としてはふざけたタイトルで面白そうなので読んでみました。三島作品を読むのは、二十年振りです。この作品は1968年ということですから、あの自決の二年前ということになります。
一般小説には、科学小説(SF)、純文学、推理etc・・・と色々ありますが三島の小説に限っては、やはり純文学として読み応えのある小説が多いようです。学生時代に『仮面の告白』や『金閣寺』などを読み始めたときは、なんと陰気な作家だろうと思って好みませんでしたが、内容はともかく、文章が素晴らしいのでついつい読んでしまったようです。
この作品は一見、三文小説みたいですが、三島の死生観を語っているようです。骨格には、彼の『死生』に対する哲学があり、それに美しい文学的装飾の肉体をそなえ、そして通俗的な服装で、読者を驚かせたり楽しませたりのサービス精神旺盛な小説です。
『命売ります』を読んでゆきますと、読者よりも三島自身が楽しんで書いていることに気付かされます。亡くなる二年前ですから、この小説は大家としての実力をもってして、気楽に書けたのではないかと思うほどの余裕もあります。また、唐突な展開も多々あり読者を楽しませてくれます。
この小説で三島は、『死』というものは自身で選ぶものであり、選ばれることを断固拒否しています。その結末が二年後の自決でしょう。三島の行動にはわからないところがありますが、たとえば盾の会についても謎が多いようです。あのような行動を見て、右翼的だと一般では思われがちですが、本人は右翼から狙われたこともあり、右翼ではないことは事実です。
彼の思想には、『葉隠』の影響があると言われていますが、いわゆる『知行合一』ですか・・・畢竟、彼は本当に有言実行で、自決前の近日の対談で、『今にわかります、今にわかります』と繰り返し対談者に言って、それを敢行しています。
師弟関係のあった川端康成とは、死の間際ではどうも、二人の関係は冷め切ったものになっていたようです。小説家としては、ダントツ三島の方がすぐれていますが、ノーベル賞は川端に渡ってしまい、もしこれが三島に渡っていたならば、あのように自決はしなかったのでは・・・と思います。
ノーベル賞は、平和賞と同じであまり的を射ていないと思いますが、されどノーベル賞です。きっと三島は欲しかったに違いありません。それとも欲しいとも思わなかったか?ですが、待てば必ず次は自分だと思っていたはずなのに何故か?死に急いでしまった。
彼の死に対する考えに、天才は夭折する運命にあるみたいな考えがあったような気もします。それは死への憧れなのか?死に方としては、太宰治みたいな女々しい死に方を嫌っていましたから、割腹自殺はまさしく彼の究極の美学だったという結果になっています。
もともと、三島は病死とか自分の意思に反して殺害されるというのを極力嫌っていましたから、希望通りの死に方が出来て本望だったと思います。それに対して、ゴムのガス管を銜えて死んだ川端は、哀れという他ありません。何故川端が自殺したのかは?謎ですが、推測として三島に対しての申し訳ない気持ちからでしょうか?
もし生きていたなら、もう八十二歳ぐらいですが、そのとき三島は今の石原慎太郎に何と言うでしょうか?そして今の日本の現状を見て何と思うでしょうか?あれからもう三十七年ぐらい経つのですが、日本はまだ行方定まらずの状況です。美しい日本などといって、病院に入院してしまうような政治家もいますし、もうなんでもありですね。
まだまだ読んでいない三島の小説がありますし、また読み返すと新しい発見もあるでしょう。学生時代の時よりも歳をとると、もっと面白い読み方が出来そうです。
死に対する考えはそれぞれですが、人は、新聞やテレビのニュースでどんなに多くの人が死んでも、コーヒーを飲みながら、或いは食事をしながら、そして晩酌をしながら平気で悲しみもせず見たり聴いたりできるものです。もし、驚きのあまり涙をながし、飲食を止めて悲しみに陥る人がいたら・・・それは奇跡だ!と思います。
所謂、身近なところでの死が一番認識としての有効性を持っているということですが、これはごく当たり前のことです。自身の死について考える人は、逆に当たり前ではなく、日常でそれを考えることは異常としてみられます。そしてそれを考える人はわずかです。
例えば、ほとんどの人は、事故にあっても自分だけはどんな場合でも死ぬことはありえないと思うのが普通でしょう。あるいは自分だけは、癌に掛かって死なないと思っていることも同様です。笑い話として企業がスペシャリストを採用する時に、そのスペシャリストが死んだ場合、彼の仕事の専門性から、彼がもし死んだらと、人事担当者が心配していましたら、なんのことはない、その人事担当者が交通事故で、すぐに亡くなったという話があります。
人は自己の死が迫ったことを知らされた時、あるいは知った時の動揺はかなりのものがあると思います。
それに動じない人は、恐らく死に対する考えを思考したことが幾度もあり、人は事故に合わずとも、癌に掛からずとも、いずれ死ぬものだ・・・といった覚悟がある人でしょう。とくに、死ぬ目に合った経験があれば、死んだと思えば、余分な人生を送れたわけですから、今度本当に死ぬ時はあきらめもいいでしょう。
筆者も事故で二度死ぬ目に合って、三度目は病気で入院して覚悟をしていたのですが、癌ではなくたったの10日間で退院してしまいました。ほとんどが癌患者の大学病院で、癌で無いとわかり・・・元気に退院する私を、うらやましそうに見られて申し訳ない変な気分がしたのを覚えています。
誰でも、自分がすぐに死ぬということを知った時、あるいは死のうと覚悟した時、財産を持つことが無意味に感じるのは当たり前ですが、そういう状況での自己の欲求についても三島はここでいろいろと主人公に語らせていますが、それも自身の死を想定した時のシミュレーションだったのかもしれません。
今の筆者にとっては、生きている以上は、生涯仕事をして天命に従ってお迎えが来るまで、好きな読書三昧もいいかもしれません。それは、ちょうど列車に乗って終着駅に行くまでの退屈さしのぎと同じような気持ちで・・・。
by 大藪光政