彦山鬼杉


この本は、著者が亡くなられてから約二ヵ月後に出版された本ですが、すぐに福津市の図書館に取寄をお願いして読みました。しかし、もともとが週刊誌等に2006年から最後までの書かれた寄稿分で、対象が一般読者ですから池田さんの思考を深く書かれたものではありません。


小林秀雄を尊敬する方にしては、こうした文章を書かれる時間がもったいない気がします。やはり記事の投稿ではなく、じっくりと一冊の本を仕上げた方が良かったのではと思います。小林秀雄は、生活のためにいろんな批評を寄稿して生活をつないできたと言っています。(本人が大学生を相手に、講演して対話をした時にはっきり言っています)


小林秀雄は、本当に生活のために文章を書いたのでしょう。しかし、彼は生活にゆとりができると、やはりとことん『本居宣長』を研究して、宣長をして自身を語る行為をされた方だと思います。そう思いますと、池田さんはまだまだ若かったので、これからだったような気もしますが結果論的には、『わからないが・・・言えばわかる人に、わからしめる仕事』これが彼女の人生だったのでしょう。


昨今の話題と言えば『偽装問題』ですが、この本にも少し触れてありましたので、そのくだりを書き出しますと『舌出しペコちゃんの会社』と題して、「法律を守ることと、倫理を守るということは、全然違うことなのである。法律を守るということは倫理を守るということと完全に異なるのである。このことに、企業の側も世間の側も気がついていない」と述べておられます。


言われてみれば、そんなことはマスコミも書き立てていませんね。法律を守っていない、だから倫理的に問題だとでもいわれているのが現状でしょう。要するに法律を守らない企業は倫理的に許せない。ということでしょうか?これだと相関関係が十分にあるので池田さんの考えとは相反しますね。


『法律』と『倫理』の違いは?そして『偽装』とは何を指すのか?この辺を考えてみたいのですが・・・そこで『偽装』についてもっと分析してみる必要があります。つまり『偽装』とは何か?どんな偽装があるのか?


偽装には下記の分類がありそうです。基本的には、事実と反する行為だと思いますが・・・。


① 開示した内容と中身が違う偽装

② 開示した内容に改ざんがある偽装

③ 開示した内容が誇張された偽装


こんな区分けでよろしいでしょうか?

区分けをしょうと考えてみると結構いろんな解釈が出てきますね。


こうした分類で世の中すべてを捉えてみると、日常的に・・そしていたるところに『偽装』があります。

例えば、ほとんどの成人女性は偽装をしています。


それは、お化粧をするでしょう。あれは偽装ではないでしょうか?こんなことを言うと大変な反発を買いますが、自分の素顔をより美しく見せようとする行為・・・当然、実物より美しく見えますね、それで上の③に該当します。もし、お化粧をしても実物より美しくならないのであれば、お化粧をする意味はありません。


こんなところから論議を始めるのは、唐突かもしれません。しかし、上の区分分析項目にはちゃんと入っています。では、このお化粧をするという行為は法律にふれるでしょうか?ふれませんよね。でも、お化粧は、贅沢であるから禁止するといった法律ができればふれます。


昔、観光地でのお土産品の過大包装として、必要以上に大きな箱や箱の底を高くした二重底問題があったのを覚えていますか?現在では、社会問題化して改善されています。これも③に相当するでしょう。何故、業者がこんなことをするのかといえば、他社製品より同じ価格でも外観を過大に見せることで客を引き付け、買わせることができるからでしょう。でも、購入した消費者はあとで騙されたことに気付きます。


有名な産地を借用して偽って、品物を売る業者も今回、摘発されていますが、消費者からの告発よりも内部告発によることが特徴です。つまり、食べた消費者は有名な産地あるいは有名な産物であると信じて買って食べてもわからなかったということです。


この場合は、摘発されなければ消費者には被害はありません。摘発されたことによって贈答した相手に対する信頼や、自身の騙されたことに対する精神的慰謝料が発生することにはなりますが・・・。法律的にはこの行為は複雑な色々な法律の中でJAS法に該当するのでしょうか?


有名な吉兆やペコちゃんの事件では、食品衛生法に引っかかりますが、これらは最初にいやな事例を上げましたように、食品問題だけではありません。先だっての建築構造偽装問題もそうですし、最近の防衛省で発覚した大臣クラスの業者との絡みにおいて『記憶に無い』という偽装もそうです。


ちいさいところでは、家庭では、おやつを黙って食べたのに『食べていない』と言い訳をする息子。目立ちたがって髪を茶髪する女の子。こんなのは可愛い偽装の始まりでしょう。畢竟、偽装はいたるところに日常として存在していることです。


それでもし、逆に偽装した物が本物とまったく同じ、或いはそれ以上だとした場合どうなるのか?といった問題や、どこまでを過大包装、過大表現というのか?と言った時には考えさせられることがあります。法律では、定量的、定性的にそこの押さえをして決まりごとを行いますが、ザル法にしてしまう天晴れな業者もいます。政治家の政治資金もそのへんをうまくやっています。


ここで喩えてみますと、もし造幣局よりも高度な印刷技術があって国の機関よりも立派なまったく見分けのつかない偽札を、もらったらどうしますか?どこで使っても決して見破られない警察でもわからない出来栄えの偽札をもらったらあなたは使いますか?


条件は、あなただけが偽札ということを知っている・・・ただそれだけの場合です。そして、当然それを多くの人が使うことになれば、国家の経済は破綻するでしょう。しかし、あなた一人ぐらいの消費ではなんら影響は無い。

それでもあなたは使わないと確信できますか?


人間、生活に困っていたら・・・或いは欲しいものがあってお金がなかったら・・・警察に捕まる心配は無く、発覚しないから罰せられる心配も無ければ・・・それは使うでしょう。でも、その行為は捕まらなくても法律違反です。でも世間では、捕まって初めて法律を犯した人になるのです。ちょうどスピード違反は、いつもやっていても、表面上は捕まらなければ法律を犯した者にはならないのです。


表面に出るかで無いかでは、法律は適用有無の対象となりますが、倫理は違います心の問題です。倫理と法律の違うところは、普遍性であるか否か?ではないかと思います。法律は、統治者が独裁者で悪法を立法化すれば、その法律に適合されれば、立派な法律違反です。そして為政者が変れば法律も変る・・・そんなものでしょう。


しかし、倫理はそうでないと思います。時代を超えて法律を超えて真理をもとに、人のあるべき道を指すものだと思いますが、人は生きている以上その倫理に沿った行為を持続することは容易ではないでしょう。


その容易でない行為として、陰日なた無く『善く生きる』ことを心がけることが本当のしあわせというものかもしれません。


ということは、世の中、なんと多くの不幸な人々で溢れているのでしょう!


by 大藪光政