仏像若杉山


この間、遠藤周作の「沈黙」と「深い河」を読んでいましたので、もう一度図書館から池田晶子さんの「人生の本当」を借りてきて、「宗教」のところを再読してみました。


池田さんの宗教に対する考えと私の考えとは、ほぼ近いものであることは、以前から思っていたことですが、遠藤周作の切実な宗教に対する想いを感じて、もう一度宗教について考えてみようと思ったわけです。


池田さんは、まず「宗教はいかがわしいか」というタイトルで切り出しています。なるほど、昨今の新興宗教には、目を背けたくなるような、『いかがわしさ』がありますね。この言葉をよく当て嵌めてみたなと感心します。

では、自身のことからお話しますと、「宗教心」というものより、「神」と「仏」の存在を在るものとして、小さい時分から抵抗なく育ってきました。それは、多くの日本人は皆、そんなものではないでしょうか?

私の両親の親戚には、どちらも神社の神主がいますが、だからと言って無理やり、教義を押し付けられたことは無く、遊びに行っても、お小遣いを貰うぐらいで、神についての話などまったくありませんでした。

幼少の頃は、その親戚に行っても、境内で遊ぶだけで拝んだりはしていませんでした。要するに、境内は、子供の遊び場だったのです。

現在に至っては、結婚式の時は、神主のお世話になり、葬式にいたっては、お寺の世話になるといった程度の浅い、お付き合いではないか?と思っています。


しかし、昨今、神社もお寺も随分変ってきました。神社は、小さいところは寂れて、廃墟同然になるし、お寺の若い住職はスポーツカーで、檀家回りをして、葬式と法事の稼ぎで大忙しです。

そして、苦しい時の神頼みとして、なるべく大きな権威のありそうな由緒あるお宮へ行って、祈願をします。しかし、昨今は、そうした神頼みをしても、いっこうに「神」は、「沈黙」しているだけであることに気付きます。

また、歳をとってきますと、葬式に参加する機会が増えてきます。その葬儀もまちまちですが、殆どが仏教です。

まだ、結婚式以外、一度もキリスト教での教会葬儀に参加したことはありません。

仏教の場合は、お坊さんのお経と説法がつきものですが、これも色々パターンがあって、私の子供は喜びます。つまり、お歌みたいなものを歌うお坊さんや、「されど!」とか言って、アジ演説みたいなお坊さんもいるからです。でも、大半は子守唄みたいに眠くなるお経が大半です。そして、下手な和尚さんの説教を聴いてお開きと相場は決まっています。


こんな調子ですから、「一事が万事」で、本当に宗教心があるのか、大変疑わしいのが真相です。まして科学が発達した現代と様々な哲学がこの世に紹介されてきますと、もはや人間の考えた「神」とか「宗教」には、疑問が生じてきます。

池田さんは、一神教について歴史ある宗教も、新興宗教も限界があると言われていますが、現実そうなってしまっています。しかし、新興宗教については、それでも『現世利益』なんかで信者を釣っていますから、無くなりはしません。むしろ繁盛しているかもしれませんね。


池田さんの話で面白いと思うのは、「神のパラドックス」でしょう。これはなんてたって池田流でしょう。「超越的な存在の神を認識するには、認識する者が超越した認識ができなければ、認識できないというのです。そうした時に、超越的な神を、超越的な認識というもので認識ができるとしたら、それは超越してはいないことになる。また、超越的な認識というもので認識ができない神は、認識ができないのだから、存在していないともいえる。というパラドックスがそこにはある。」といったことを書いています。

これは、論理的に読めば、そうだなとは思いますが、いや待てよ!これは人の主観で考えるからそうなるのでは?これは、漠然とした発言ですが、もし「神」あるいは「something great」などが存在しているとしたら、我々の次元の世界とは違うゆえに、こうしたパラドックスになってしまうのではないかと。


ですから、本来の宗教の役目は、盲信させることではなく、やはり自己の存在の不思議さや、「沈黙の神」について思索する行為をうながすことによって、あらためて現世の苦しみや憎しみなどの人の煩悩について、その無常に気付かせることかもしれません。

そうしてみますと、昨今の宗教が、現世利益に走り、組織化に走り、階層を設け地位を創って行く様は、やはり池田さんの言われるとおり、「宗教はいかがわしい」と思わざるを得ません。


これでは、自身が成仏するとき、どこの宗派のどこのくそ坊主に葬儀をお願いしなければならないか・・・本当に困ってしまいます。もう、宗派も、くそ坊主もはずして、音楽葬でも、してもらいたい気持ちです。


現に、家族にはピアニストに謝礼してでも、ピアノ演奏による音楽葬を、と言っています。もちろん曲目はシューベルトのソナタ18番でしょう・・・今のところは。


最後に、やっぱり「神」は存在しているでしょう。つまり・・・私という存在が「神」なのです。つまり大藪某というのは仮の姿で、現在生きることに苦労している「神」なのでしょう。現人神は、そんなものでしょう。大藪某が、池田某であっても不思議ではないのに、何故現世では大藪某であるのか?


それが謎です。

我が家に、時々新興宗教の勧誘に信者が来ますが、その時私はいつもこう言っています。「私は『光政教』の教祖です。どうですあなた・・・私の患者になりませんか?私の教えは、信じるものは救われない!愛するものは救われる」と言うと、残念ながら・・・私の患者になることなく・・・私の元を去って行きます。「神とは、なんと孤独な存在でしょう!まして人間など・・・」


by 大藪光政