すすき

遠藤周作の「沈黙」をこの間読みましたが、前回 「深い河」を読んでいましたから、順序としては逆になってしまいました。遠藤さんが、インドに取材旅行に行かれる直前の講演テープを聞いた内容は、まさにこの「沈黙」の内容でした。


クリスチャンである遠藤周作は、自身の闘病生活の中でイエス・キリストを考える時、様々な角度で、懐疑的に追求して、神の存在まで思索して行ったところが小説の下地となっています。


長崎での隠れキリシタンの存在から、日本的なキリスト教の布教とその実態で、西洋のキリスト教に対して問いを掛けているところがありますが、彼が問いかけているのは、キリスト教を超えたところの「神」の存在を問うているといった感があります。


長崎の隠れキリシタンのところで、改宗することを「転がる」と言っています。役人による拷問と、踏み絵を使って、転がることを強いられた隠れキリシタン。そして遥々日本にやってきた高名な宣教師までもが、そうした隠れキリシタンの命と引き換えに、自ら転ばせられた宣教師の心情を、遠藤周作は、その是非を追求します。


神は、こうした隠れキリシタンの過酷な現状に対して何一つ、為すことは無く、ただ「沈黙」しているだけである。何故、神は沈黙しているのか?神に対する疑念も起きて当然な状況まで、描写しています。


役人の拷問と処刑から隠れキリシタンを救うためにも、宣教師が転ぶことをきっとイエスは許してくださるだろうと、そしてそれこそイエスキリストの教えではないか?という問いかけを宣教師にさせます。


この「沈黙」という本を出版した時は、教会では禁書扱いにされたと聞きます。信仰するとはどういうことか?

そして、裏切った隠れキリシタンを許して良いのか否か?


同じクリスチャンで作家の曽野綾子さんは、人は信用できない、裏切りもあって当然、だから人は疑って掛かるべし、信じるのは神のみなどと公言しています。


その点、遠藤周作はキリスト教・教会による布教の仕方に疑問を感じ、日本での布教は失敗だったのでは、との疑念を抱いているようです。


宗教における信仰にともなった「神」の存在は畢竟、自己の心の中での偶像としか思えないのですが、それで自身の心が安らぐのであれば、それはそれでよいのではないかと思います。


しかし、宗教は自己の中にある「神」の存在だけには留まらず、必ず現世利益をともなって、組織化され、教義化され個人を束縛するようになります。そして、組織の中には階層が生まれ、個人の心は洗脳されて自由を失います。


個人にとって病気や生活の苦しみから救われることを求める行為は、当たり前のことで、それでもって救われたいが一心に宗教にそれを求め、入信します。しかし、「神」が沈黙することなく、救済するのであれば、信者は救われるのですが、そんなに甘くはありません。


救済などという行為をする神は存在しないのです。苦しい時の神頼みは、自己催眠かもしれません。曽野綾子さんは、「無神論者は決して苦しい時の神頼みをしなさんな!」と言っていますが、宗教人が指すところの「神」と無神論者が思うところの「神」は違うのです。


曽野綾子さんにとっての神はキリスト教を指すでしょうが、無神論者は、そうした俗人の発想での神ではなく、「something great 」を想うものなのです。


「something great 」には、現世利益などありません。ただこの宇宙を創造した人類の英知とは比べ物にならない深遠な力が存在している・・・それに対して畏敬の念を抱く。ただそれだけのことです。


遠藤周作氏もそんな「something great 」のような神に近づこうとされたのではないでしょうか?


by 大藪光政