1. 初めに 


前シリーズ『邪馬台国 卑弥呼』では、女王卑弥呼が即位する主な要因となった倭国大乱、この倭国大乱の最終決戦場となった筑紫野市の永岡遺跡と隈・西小田遺跡群38の首狩遺骨や激しい戦傷遺骨の写真を見ました。さらに倭国大乱は、「宝満川上流」に突然現れた住血吸虫が原因であるという話をしました。そして女王卑弥呼時代つまり弥生時代後期の「宝満川上流」の遺跡を見ました。

本シリーズ『邪馬台国 卑弥呼(続)』では、少し流れ下った「宝満川中流」の遺跡を見ていきます。この「1.初めに」では、前シリーズ「宝満川上流」の住血吸虫の始点付近だけ再確認します。住血吸虫の始点は、御笠地区遺跡15のE地点で、弥生中期後半という話をしました。同遺跡で、弥生時代後期の遺跡はG地区だけです。そしてG地点の土器は在地系です。そして..


[御笠地区15, p200]
“G地区は、住居跡が集中しており、弥生時代後期からピークを弥生時代終末に迎え、5世紀前半までみられるほか、古墳時代後期以降の住居跡もみられる。”


一方、同じ御笠地区遺跡15で、古墳時代初頭(AD250頃)に、宝満川上流の東岸B地区に畿内系土器の遺跡が現れます。少し流れ下ったG地区に近いD、E、F地区にも畿内系土器の遺跡が現れるのは、数十年ほど後です。

この時代の畿内系の土器区分は、庄内式土器の新しい段階はAD250~AD270、布留式土器はAD270~AD300、古式土師器はAD280~です。布留式土器と古式土師器はオーバーラップしています。また庄内式土器の古い段階はAD220または230頃に始まり、~AD250です。

[御笠地区15, p200]
“B地区では在地系の土器が極めて少ないのに対し、G地区の在地系の土器を中心とする遺構のあり方・・”

“B地区は、庄内式土器の新しい段階から布留式土器の範中に収まる古式土師器を伴う住居跡を主体とする遺跡である。”
“D地区は布留式土器から5世紀前半に至る住居跡で・・・”
“E地区は、D地区とほぼ同時期に営なまれていたと思われる住居跡が検出された。”
“FⅢ区の住居跡は遺物が少なく明瞭でないが、E・D地区の住居跡とほぼ同時期の住居跡と推定される。”


[御笠地区15, p200]
“B地区では在地系の土器が極めて少ないのに対し、G地区の在地系の土器を中心とする遺構のあり方、また、D・E・F地区の状況を見ると、古墳時代前期の変化が早急な事がうかがえる。”


G地区は在地系の土器を中心とし、弥生時代後期つまり卑彌呼時代に始まっている。そして弥生時代終末にピークを迎えて衰えた。つまり卑彌呼の死(AD248)と伴に衰退した。

B地区は庄内式土器の新しい段階ですから、AD250からです。卑彌呼の死(AD248)の直後、早くもB地区に畿内系土器の住人が現れた。

「宝満川上流」では、卑彌呼の死(AD248)以降、在地系の土器(G地区)から畿内系の土器(B・D・F地区)へと、急速に切り替わったことがわかります。

 


5. 引用文献
※ 九博>西都大宰府>資料ライブラリー (右端)
https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html

1. [御笠地区15] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.154
https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/pdf/d-154.pdf
御笠地区遺跡 御笠地区県営圃場整備事業に伴う発掘調査, 筑紫野市文化財調査報告書第15集本文編, 筑紫野市教育委員会, 1986年.

2. [隈・西小田38] 隈・西小田地区遺跡群 隈・西小田土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報, 筑紫野市文化財調査報告書第38集, 本文(p15, p163, p167, pp543-544), 筑紫野市教育委員会, 1993年. [購入本,販売書籍,筑紫野市,印刷本]