8.5. BC770頃、芦屋に初上陸
遠賀川流域は、BC770頃に、遠賀川式土器が最初に上陸した地点です。河口域の川底の遺跡で多量の新種の土器が発掘され、遠賀川式土器と命名されました。さらにこの地域は神話的・伝説的な逸話が多く残っています。地域に残るこれら昔話も交え、遠賀川式土器が現れた頃から見てみます。

遠賀川式土器は芦屋に上陸し、まず遠賀川河口域に拠点を築いたようです。そして上流部へ進出していきます。立岩近くの遠賀川の川底から、最初期の遠賀川式土器が発掘されています。大変品質が高く、遠賀川東岸の在地系立岩遺跡への贈り物のようです。図中☆。
立岩近くで出土した土器の写真は下記URL
https://collection.kyuhaku.jp/gallery/51.html

遠賀川式土器の器形は、中国の辛店文化(Xidian culture)の彩陶の壺に大変よく似ています。辛店文化は仰韶文化(Yangshao culture)のずっと後の後継の文化です。文様は辛店文化の彩陶でも時々見かける重弧文です。3条か4条の櫛型具で文様を刻んでいます。ただ辛店文化の彩陶には必ずあるpainted(彩色)が無いものが多いのです(刻み文様だけ)。日本では彩文土器といいます。
しかし決定的な違いがあります。辛店文化の彩陶の壺には必ずある双耳がありません。これら中国の辛店文化の彩陶の壺とは多くの差異があることより、遠賀川式土器は、彩陶が中国で変容する前のオリジナル、つまりメソポタミアのウバイド・ガウラ土器の影響をより直接受けていると推測します。遠賀川式土器はウバイド・ガウラ土器に非常に近いです。
ここからは神話的な話になるのですが、預言者イザヤはBC700頃に「地の果」「海の」「島々」とイザヤ書40章以降に記載しています。預言者イザヤのグループがBC700頃に芦屋に上陸した。また地域の鞍手町には「天狗」の伝説が残っています。鼻の大きなメソポタミア系グループが海路で直接芦屋に上陸したと考えられます。
遠賀川式土器は、さらに上流へ進出します。ショウケ峠を西へ越え、福岡平野の御笠川東岸、中・寺尾遺跡を拠点とします。この時点で、福岡平野の御笠川西岸、福岡平野のど真ん中の板付遺跡G7a第12-14土層には、先着の支石墓・木棺墓の夜臼式土器がいました。この板付遺跡G7a第7-9土層に、彩陶を伴う板付式土器が現れ、共存します。
また道場山遺跡2地点と御笠地区遺跡Eには縄文時代の縦長剥片の腰岳黒曜石グループの残党がいます。黒曜石を採取加工するなどして、海を渡り取引をする海人です。沖縄の貝貨・貝輪も扱っていました。支石墓・木棺墓系の夜臼式土器とはXXの仲です。
ここで板付遺跡G7aに現れた支石墓・夜臼式土器と彩陶・板付式土器の出自を見てみます。その前に、メソポタミア系グループのAD150頃の九州南部への上陸の話を少しします。
AD150頃に九州南部に上陸: 時代は跳んでAD150-250頃、再びメソポタミア系グループが、海路で直接日本へ上陸します。日本では、弥生中期末-弥生後期つまり倭国大乱期-女王卑弥呼時代です。
この話の根拠は、AD150頃、忽然と九州南部だけに現れた免田式土器です。次図は免田式土器の分布です。九州北部には全くありません。熊本県南部の球磨川流域の人吉盆地に集中しています。熊本平野の白川と加瀬川流域にも多く分布しています。しかし熊本県北部の菊池川流域にはありません。

菊池川流域は、女王卑弥呼の吉野ヶ里遺跡を、AD247に攻撃した狗古智彦の拠点です。しかし免田式土器はほとんどありません。やはり狗古智彦は北の朝鮮半島から遠賀川沿いを南下して廻り込んだ、遠賀川土器の勢力です。ただし免田式土器の勢力も、AD247の吉野ヶ里遺跡への攻撃に加担したかもしれません。

なぜならば、熊本平野の北と南で、争わずに住み分けている。同じ細頸長頸壺で起源は同じ勢力である。さらにAD150に突然現れてAD250に忽然と消えているという共通点がある。勝者側であるにもかかわらず。このことを考察してみると、彼らは普通の移民ではなく、侵略を目的とした職業軍人集団である。軍事的に勝利すれば作戦完了です。そこに留まる理由は無い。
分布図をさらに見ていきます。南の鹿児島県では、西北部の川内川上流の伊佐市に存在します。南の国分市にも少し南下しています。鹿児島県西南部の海岸沿いの丸木舟製作用の丸のみ石器で有名な南さつま市にも存在します。しかし鹿児島県の大隅半島には全くありません。宮崎県は大淀川流域にだけ存在します。宮崎県北部の延岡市、さらに大分県には存在しません。長崎県は島原半島南部の山の寺梶木遺跡付近のみ存在します。少し跳びますがAD116頃にSusaはローマ帝国に占領されました。このSusa系列の地域を次々に占領したようです。
免田式土器の特徴的な土器は細頸長頸壺です。しかし細頸長頸壺は九州北部の北の朝鮮半島からの移民の集落でも同時期に発掘されています。比べてみます。次の左図が北の朝鮮半島から九州北部へ上陸した細頸長頸壺です。福岡県筑紫野市の以来尺遺跡出土です。右図が南の海路から九州南部へ上陸した細頸長頸壺です。熊本県南部の球磨郡錦町の夏女遺跡出土です。

右図が免田式土器です。遠目では同じような細頸長頸壺ですが、右図の免田式土器には重弧文があることが多いです。最大の特徴は胴部中央で角張りを伴うことです。これはウバイド土器です。一方、左図の朝鮮半島の細頸長頸壺には重弧文は無く、全て無文です。胴部は免田式とは異なり、丸いのが特徴です。胴部の角張りはありません。また胴部に粘土帯があることもあります。
熊本平野では南の免田式と北の朝鮮半島の細頸長頸壺が混在していますから少し見分けが難しいです。しかし九州北部の福岡県とくに遠賀川流域には、南の免田式土器は全くありません。中国浙江省を経由してメソポタミアのウバイド土器が、九州南部へ直接来ています。預言者イザヤのずっと後の後継者、つまりAD60頃にローマで「福音」を宣言した聖パウロです。この使徒たちが、地の果て極東の日本の九州島まで直接遠征して来たようです。
※ 以来尺遺跡の朝鮮半島からの細頸長頸壺は、シリーズ続2「渡来移民の以来尺遺跡」で詳述します。
次ではBC1040頃の板付遺跡G7aに現れた支石墓・夜臼式土器と彩陶・板付式土器の出自を見ます。


8.6. 夜臼式土器と板付式土器の彩陶
中国の浙江省の温州市の欧江上流に麗水があります、ドルメンが群集しています。すぐ南の飛雲江河口に瑞安があります。瑞安華僑と呼ばれ商人です。南の福建省の曇石山はBC2000より彩陶の遺跡です。この闽江河口域は水田稲作地帯です。ビン越です。

日本の九州北部へは、BC1040頃、浙江省の麗水のドルメン(日本では支石墓)が夜臼式土器(刻目突帯文土器)として先に上陸します。途中、韓国の済州島・麗水に上陸してドルメンを多数作っています。世界遺産に指定されています。そして日本の九州北部へ上陸します。福岡平野の御笠川西岸の板付遺跡G7a第12-14層です。日本では夜臼式土器です。

次に福建省曇石山の彩陶の闽越が、板付遺跡G7a第7-9層に板付式土器・彩陶として現れ、先着の夜臼式土器と共存します。この第7-9層には彩陶が多数出土します。南瑞安・彩陶グループです。これは農業ですから九州北部で本格的に水田稲作が始まります。
一方、瑞安は中国の北の方にもあります。中国の遼寧省胡芦島市にかつてあった瑞安県です。この胡芦島市から九州北部の東方の芦屋に上陸したのが遠賀川式土器グループです。そして前述したように福岡平野では御笠川東岸の中・寺尾遺跡を拠点としました。

 


8.7. しかしBC200-AD100覇権喪失
BC200頃から中国では前漢が統一しました。九州北部は奴国・邪馬台国の甕棺墓グループが制圧しました。遠賀川式土器は、九州北部で継続的に存在していますが、主流は甕棺墓グループです。中国の前漢は200年ほど続きましたが、紀元後8年に新により簒奪されました。しかし新の治世はうまくいかず、周辺諸国には不評で、25年に光武帝が後漢を再興しました。光武帝は57年に福岡平野の奴国王に金印を授与しました。光武帝は1ヶ月後に崩御しました。
ここでまた神話的になるのですが、ちょうどこの頃、はるかに西方のローマで聖パウロが福音を宣言しています。遠賀川式土器は、BC200-AD100の期間、つまり奴国時代の約300年間、完全に覇権を失っていました。しかし中国の後漢はAD100頃から完全に弱体化し始めました。


8.8. 二日市温泉街の道場山遺跡
なぜ二日市温泉街の道場山遺跡が、これほどまでに先鋭化して、南の邪馬台国を攻撃したかです。
弥生前期末-中期初頭は、協力して覇権を勝ち得た同じ甕棺系です。原因は朝鮮半島南岸でのAD100頃の覇権喪失にありそうです。奴国の朝鮮半島南岸の拠点・勒島はAD100頃に終焉しています。AD57に奴国王の金印を後漢より授与され全盛時代でした。金海はAD100以降も木棺墓が継続しています。しかしAD150以降、金海の王墓は木棺墓→木槨墓に覇権が移っています。王墓だけ木棺墓→木槨墓に変わっています。一方、木棺墓はAD150以降、九州北部の遠賀川支流犬鳴川流域の汐井掛遺跡で大量に出土しています。木槨墓は燕・斉など中国華北および遼西の墓制です。華北の特徴的な武器である鉄戈(か)も九州北部で見られるようになります。次図は二日市温泉街の道場山遺跡で出土した鉄戈です。立岩式(古)の甕棺K-100の棺外から出土したので、倭国大乱前半、AD150-160頃です。

[道場山図版,PL.61 PL.62],[道場山,p175Fig.118]
同時期の九州北部では次図の鉄戈が出土しています。5と7は立岩堀田遺跡出土の鉄戈です。遺存状態もよく堂々とした鉄戈です。遠賀川式土器から在地系への最高級品の贈物とみなせます。

[道場山,pp176-177Fig.119]
騎馬族の木槨墓が朝鮮半島南岸の金海大成洞遺跡に現れるのはAD300以降です。それ以前のAD150-300の金海大成洞遺跡の木槨墓は非騎馬族です。


8.9. 道場山と立岩の鉄戈の起源
二日市温泉街の道場山と立岩の鉄戈の起源を探します。戈は銅戈として華北の燕國・遼西に、BC500年代に初めて現れました。戈は中国北部オリジナルです。さらにBC400年代には遼西独自型が現れました。次図に変遷を示しています。ここで道場山と立岩の鉄戈に似たものを探すと、右下の遼東のBC200年代の八河川鎮(丹東市)とその上の銅戈がそっくりです。遼西独自型の系譜です。遼西独自型はBC400年代に干道溝で祖型が現れています。燕國型から独自の型に変容したようです。そしてBC300・BC200年代に遼西→遼東へ拡がっています。

ユーラシア東部における青銅器文化(弥生青銅器の起源をめぐって), 国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集, p229, 小林青樹, 2014 年2 月, Bronze Cultures Around Eastern Eurasia at 1st Millennium BC and the Origin of Yayoi Bronzeware, KOBAYASHI Seiji

 

遼西の赤峰はBC900頃に独自の遼寧式銅剣が現れた地域です。鉄戈は銅戈を模写したものです。これより道場山・立岩の鉄戈の起源は、遼西赤峰市BC400→遼東丹東市BC200→(前漢・後漢)→金海のAD150木槨墓(非騎馬族)→芦屋上陸→立岩・道場山というルートです。
前200年代、戦国時代末、燕國が遼西・遼東に勢力を伸ばしました。北方には騎馬族の東胡がいます。次図の茶線で示したように燕長城を築き、北の騎馬族東胡への備えとします。遼西の赤峰・大凌河(Daling River)は燕長城の内側です。つまり赤峰は非騎馬族として燕の配下に入っていた。そして長城内側で対騎馬族の警備を担当していた。

燕配下の満が北朝鮮へ亡命して来て、西の警備を申し出て任せられた。しかし箕子を倒しBC108まで王位についていた(史実から消えかかっていますが)。警備という仕事に共通点があります。この満が遼西の赤峰・大凌河勢力のようです。遼西独自型の戈です。つまり遼西の赤峰・大凌河勢力がこの時に鴨緑江を越えて北朝鮮に進出した。衛満の手柄です。
しかしBC108-AD150は前漢・後漢の直接支配が朝鮮半島北部に及んだ。朝鮮半島北部では楽浪土器が全盛です。しかし後漢が衰退し始めたAD150から再興します。遼西の赤峰・大凌河(Daling River)の非騎馬族の戈が、AD150に金海で木槨墓として復活した。そして史実から消えかかっている衛満は九州北部に上陸した。衛満は遼西・大凌河勢力です。朝鮮半島西岸の細型銅剣の祖型である遼寧式銅剣の青銅器工房のようです。遼寧式銅剣は日本ではびわこ型銅剣とも呼ばれます。満は汐井掛遺跡の木棺墓とは異なります。図中の☆①と②③⑥⑧が青銅剣の満です。そして図中の☆④が汐井掛です。そして満は弥生後期に青銅器工房として福岡市南区の井尻B遺跡、春日市の須玖岡本遺跡に現れた。



8.10. 倭国・後漢・鮮卑の奇妙な一致
中国の後漢ではAD146に桓帝が即位しました。これに期を合わせ朝鮮半島南岸も動きます。AD150頃に金海王墓は木棺墓→木槨墓に変わりました。金海の王墓は木槨墓に変わりましたが、石槨墓や甕棺墓も周辺にあります。
同時期、AD150-160頃、金海系の胴部が膨らむ甕棺が、遠賀川流域に上陸したものが、立岩式(古)です。
一方、北のモンゴル高原の鮮卑では、AD150年代から少し面白いことが起こります。雹で身籠った子の檀石槐が成長し鮮卑を統率します。檀石槐は中国北辺を荒らし、この略奪は檀石槐が光和年間(178-183)に死ぬまで続きます。檀石槐の後継から鮮卑は世襲制になり和連が継ぎます。しかし和連は淫乱だったため189年に射殺されます。これから見ると鮮卑の世襲制の和連は「WA-koku-TAIRANの勝者なのに王になれなかった」。つまり中国の"黃巾賊"に相当します。

モンゴル高原の鮮卑のこの"檀石槐"と"和連"は、日本の九州北部の宝満川の投射です。九州北部の宝満川では、AD150頃から住血吸虫で腹が膨れ、倭国大乱になりました。183年に女王卑弥呼が倭国大乱の敗戦側から即位しました。即位直後に後漢に朝貢しました。しかし後漢では184年に"黃巾賊"が勃発します。女王卑弥呼の朝貢への詔(後漢皇帝から朝貢国への冠位・贈答品での返答)は中断します。189年に"黃巾賊"も静まり、女王卑弥呼は後漢より「中平」鉄刀を受け取りました。AD190から邪馬台国の女王としての治政が本格的に始まります。AD190以降が日本では弥生後期前半です。AD183-189は弥生後期初頭です。