3.2. 板付(市営住宅)1区 


御笠川が蛇行して東から西に流れています。すぐ北には前回の那珂君休遺跡です。板付(市営住宅)遺跡全体は大きく、環溝(史跡板付遺跡)の西と北側で、諸岡川の東岸です。広大な領域で発掘調査報告書も長編です。遺跡全体を見るのは大変です。さらに今回は御笠川の住血吸虫汚染からの影響を確認することが主目的です。御笠川のすぐ側の1区が最適です。1区を見ていきます。

[那珂君休2次, p2]
“君休遺跡より東南方約500mの地点に板付遺跡…がある。東西幅150-200m、南北長700mの板付丘陵の東・西側に展開する沖積面では水利施設(取水排水口)を伴う縄文時代晩期終末-弥生時代前期の水田址(G-7a・b、E-5b調査区)が特に丘陵の縁辺部に沿って検出されている。これらは縄文時代末期から弥生時代にかけての小海退期に形成されたと考えられる湿地が水田として開発利用されたといわれている。”


板付遺跡G-7a・bとE-5bは、縄文晩期から弥生前期の福岡平野 で見ました。

[那珂君休2次, p2]
“続く弥生時代中-後期の時期になると水田面は丘陵西側で飛躍的に拡大する傾向にあるらしい。板付水田遺跡第3区では旧河川河岸に堰を付設し、縦横に走る大小の溝中には杭列が打たれている。”


続く弥生中期-後期は、奴国と邪馬台国の時代です。ここでの板付水田遺跡とは、これから見る板付(市営住宅)遺跡のことです。

遺跡全体が弥生中期前半-中頃の水田遺跡です。弥生前期には洪水時の氾濫原の低湿地でした。水田として活用されていませんでした。弥生中期前半から、護岸工事を施すことにより、水田として活用し始めたようです。この板付(市営住宅)遺跡の中でも、御笠川に最も近いのが1区です。地図中、1区の東端に標高差1m程の「台地」がありました。ここが墓域です。この墓域の甕棺墓を見てみます。
[板付(市営住宅), p650図]

[板付(市営住宅), pp649-652]
“墓地は第1区台地上に営まれていた。その内訳は、甕棺墓63基・木棺墓24基・土砿墓27基、計114基である。
甕棺墓 甕棺墓は、前期末から中期中葉までの63基である。”


“時期別にみると、前期末6基(成人5・小児用1)、中期前葉38基(成人用13・小児用25)、中期中葉19基(成人用9・小児用10)となる。”

“前期末の6基はすべて調査地中央東側に位置する。60・63号の存在から、分布は東側にのびると推定される。”

“中期前葉は、この墓地のもっとも盛行した時代で、明確に群をなすもの(51-53号)もあるが、他は判然としない。あるいはこの51-53号を含む末掘部分と他のものとの2群になるかもしれない。”

“中期中葉にいたるとやや少なくなり、19基であるが、全域にひろがり、群集する状態ではない。この時期になると4号の墓砿が中期前葉の5号の墓砿を判明、成人墓の1号墓砿中に小児墓の19号が埋置されている。この他に24号が前期末の55号直上に埋置されているが、55号を破壊してはいない。”

“この甕棺墓地は、中期中葉でも新しい時期で後葉としてもよいような50号を最後にまったく放棄されてしまう。”


この板付(市営住宅)遺跡の1区の「台地」は、弥生前期末の奴国の創世期に始まり、弥生中期前葉と中葉の奴国の全盛期の墓地である。

 

河川の護岸工事を得意とする奴国系集落の歴代の墓地である。

 

しかし中期後葉初に突然放棄されている。

弥生中期中葉末、御笠川に突然現れた住血吸虫汚染が原因。


引用文献
12. [板付(市営住宅)]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16947
板付, 市営住宅建設にともなう発掘調査報告書(1971~1974) 上巻本編, 福岡市埋蔵文化財調査報告書第35集, 福岡市教育委員会, 1976.