今回は、発掘調査内容に少し踏み込みますから、読み取りづらいかもしれません。

3.3. 板付遺跡G-7a・bとG-5・6
次図は板付遺跡付近の縄文晩期の海岸線イメージです。

御笠川と諸岡川の間で、砂洲の先端付近が板付遺跡のG-7a・bです。川との位置関係から、G-7a・bがE-5・6より、少し古いことを想定しています。少し古いと言っても同じ夜臼式土器単純層を持つ遺跡です。縄文晩期中頃が紀元前11世紀中頃に始まり100年間として、紀元前8世紀中頃から弥生時代が始まると仮定すると、縄文晩期終末は紀元前10世紀中頃 - 紀元前8世紀中頃のわずか200年間です。

 

※ 最初におことわりしておきますが、各遺跡は発掘調査後に宅地造成や道路工事により削平され残念ながら残っていません。新興住宅地であり現在の居住者は遺跡とは無関係です。

 

夜臼式土器は長崎県佐賀県の北部海岸部より始まります。北部海岸沿いを東進して福岡平野に現れます。さらに大幅に東進して関西さらに伊勢辺りにまで至っています。福岡平野では夜臼式土器の単独層が100~200年間あります。次に遠賀川式土器が福岡県遠賀郡芦屋町より現れます。遠賀川式土器も大幅に東進して関西・中部地方まで至ります。遠賀川式土器だけは更に東進して長野県まで進出しています。木曽川を遡上したと思われます。夜臼式土器と遠賀川式土器は別々ですが、ほぼ同じ経路で関西・中部地方へと東進しています。一方、福岡平野では夜臼式土器の単独層の後、遠賀川式土器が彩陶を伴って現れます。そして先着の夜臼式土器と共存します。

 

まず弥生土器の現れる直前の夜臼式土器の単独期間、つまり縄文晩期終末から始まります。福岡平野の板付遺跡G-7a・bと板付遺跡E-5・6は、2遺跡とも夜臼式土器単純層の土層を数層持つ遺跡です。差があったとしても数十年しか変わらないでしょう。海岸線の地形がイメージと異なっていたとすれば、時期が逆転するかもしれません。縄文晩期終末、ほぼ同時期の遺跡としてG-7a・bとE-5・6を見ていきます。また板付遺跡E-5bはE-5・6の北に隣接する遺跡で全く同じ土層柱状図を持つので参考に見ます。

板付遺跡G-7a・b
板付遺跡7a・bの第10層 - 14層は夜臼式土器単純層です。その上の第7層 - 9層から板付式土器共伴層になります。

[板付遺跡G-7a・b, p]
“G-7a調査区は、表土より、第1層、現水田耕作土、第2層、鉄分の沈殿した床土、第3層、褐色粘土層、第4層、砂混入淡茶褐色粘質土層、第5層、淡茶褐色混砂土層、第6層、粗砂層、第7層、黒灰色粘土層、第8層、粗砂層部分的に存在する。、第9層、有機質の暗黒灰色粘土層、第10層、青灰色細砂層、第11層、茶白砂層の互層、第12層、灰黒色砂質粘土層、第13層、暗灰黒色砂質土層、第14層、黒灰色粘質土層、第15層、地山の黒色粘土層、16層、八女粘土層となっている。”


G-7aの遺物
[板付遺跡G-7a・b, p40,p46,p47]
“第7層と第9層は、板付Ⅰ式土器と夜臼式土器の共伴する時期の水田耕作土で、わずかに土器の小片を含む。第10層は夜臼式土器単独の遺物包含層で、東側に部分的に存在する。第12~13層は夜臼式土器単純の遺物包含層であるが、第12層は水田耕作土の可能性もある。第14層は夜臼式土器の時期の水田耕作土で下部に土器の小片を含む。”


[板付遺跡G-7a・b, P52,p53]
“第7層と第9層の板付式土器と夜臼式土器の共伴する水田遺構の下に、数層にわたって夜臼式土器の単純層が認められる。出土土器は砂の間層をはさんで下層と上層に大別できる。すなわち夜臼式土器は層位的に下層、上層、板付Ⅰ式土器共伴層として分離できる。”

 

 

第10-14層が夜臼式土器の単純層で、第11層の砂層をはさんで、第10層が上層、第12-14層が下層です。

第12-14層の土器
[板付遺跡G-7a・b, p53]
“下層の夜臼式土器
セットとして深鉢、浅鉢、大形壷、中形壷、小型壷がある。高杯は未発見である。深鉢は直口するものと胴部が屈曲するものの二種がある。器壁の内外面に条痕が著しく一部ケズリで消す場合もある。突帯の刻み目も大きく深い。底部は台形状に貼り出し安定感がある。口縁端部が平坦にヘラでケズリとられている特徴がある。条痕は横方向が大部分であるが一部縦条痕もみられる。器形的には山ノ寺、原山式と呼ばれたものも含む。浅鉢は黒色磨研のものが多い。器形、整形技法は黒川式土器のそれを踏襲している。壷形土器の大部分は丹塗り土器で、外面の全面と口縁部内側の数が帯状に丹塗りされたものである。一部器面に条痕を残したまま丹塗りされたものもある。中、小型壷は胎土が精良で外面はよく研磨されている。底部は台形状の平底であるが、一部、丸底に近い平底のものも存在する。”


第12-14層の真中列の浅鉢を見ると、「底部は台形状に貼り出し安定感がある。」そして胴部は膨らみがほとんどなく直線的であることより、前述した十郎川遺跡(二)の鉢形土器Ⅳ類、縄文晩期終末の土器と同時期です。十郎川遺跡(二)は鉢形土器Ⅱ類、縄文晩期中頃には始まっていましたから、この板付遺跡7a・bは少し後のようです。この板付遺跡7a・bの報告書は出土直後の概報であり、出土土器の詳細が掲載されていませんから時代の確定はできません。ただし、板付遺跡7a・bが縄文時代晩期、板付Ⅰ式土器を共伴しない夜臼式土器単純層から始まり、福岡平野では一番古いのは確かです。また大形壷は夜臼式土器の最初期から存在するようです。

第10層の土器
[板付遺跡G-7a・b, p53]
“上層の夜臼式土器
出土土器が極めて少いが、下層の土器とはやや異っている。出土土器には深鉢、浅鉢、大形壷がある。深鉢は底部が台形状をなさずたちあがり、板付Ⅰ式土器の甕形土器の底部に近い。器壁外面に施された横方向の条痕は胴部下半をナデ消している。大形壷は器形的には下層、あるいは板付Ⅰ式土器を伴うものと同じである。外面と口縁部内側を帯状に丹塗りする。内面の器面調整に刷毛目痕がみられるものである。底部に穿孔したコシキの存在もある。”


第7-9層の土器
[板付遺跡G-7a・b, P53]
“板付Ⅰ式土器共伴の夜臼式土器<br>
セットとして深鉢、浅鉢、壷がある。器形的には単純層出土の土器と大きな変化はない。深鉢には直口するものと、胴部上半で屈曲する二種がある。器面調整は条痕を施した後ナデによって消される傾向が強い。突帯の刻みは丁寧でそろっている。施文具に特徴がある。一部、条痕のかわりに刷毛目を施すものがあり、条痕も細いものがたて方向に施されるものが多くなる。浅鉢、壷には基本的に変化はない。”


板付Ⅰ式土器
従来の板付Ⅰ式土器である。甕、壷がある。不明確であった大形壷の存在を確認した。壷の丹塗りは夜臼式土器と同じである。彩文土器が多い。”

共伴する板付Ⅰ式土器は、彩文土器の割合が多いようです。朝鮮半島には彩文土器がありませんから、彩文土器は長野の諏訪・甲府盆地から遠賀川式土器と一緒に戻ってきたということでしょう。この時、後に金隈遺跡となる抜歯風習のあるの住人も伴っていた。さらに朝鮮半島より大量に渡来した丸っこい無文土器と福岡平野で融合したようです。

一方、夜臼式土器の前、黒色磨研の山ノ寺式土器は浙江省・福建省に起源があるようです。直近では朝鮮半島のドルメン地帯の和順に同じ黒色磨研の土器が見られます。長崎県から東進したドルメングループの夜臼式土器は、関西・伊勢への遠征過程で変容し、遠賀川土器と彩文土器を伴って戻ってきた。そして福岡平野で板付Ⅰ式の弥生時代が始まった。さらに彩文土器、中国では彩陶と呼ばれますが、中国の斥候省にも見られます。これは北方の山東省から来たルートもあります。

板付遺跡E-5・6 (34次, 板付会館)
図の土層は次のようになっています。1 耕作土, 2 耕作土下層(床土), 3 褐色粘土シルト層, 4 暗褐色粘質上層, 5 褐色砂層(土器包含層), 6 黒灰色細砂シルト層, 7a 暗黄褐色粒シルト層, 7b 黒褐色粘土層, 8a 黒色粘土層, 8b 黒色粘土シルト層, 8c 黒色粘質土シルト層, 8d 黒灰色シルト細砂層, 9a 黒色粘土シルト層, 9b 粗砂層, 9c 黒灰色シルト粘土層, 9d 赤褐色灰白色粗砂層, 10 暗青灰色シルト層, 11 黒灰色粘質土層, 12 青灰色粘土層, 13 黒色粘土層。10層 - 13層の東側を小溝が掘り込み、8層と9層が河原として堆積しています。遺物が出土するのは、この河原の8層と9層だけです。水が引いて現れた河原に移住したようです。

参考:板付遺跡E-5bの土層だけ
E-5bは、E-5・6の北に隣接しています。翌年に発掘されましたから担当者は異なりますが土層は全く同じです。10層-14層の東側を小溝が掘り込み、8層と9層が小溝の河原として堆積しています。

E-5・6 (板付会館)の遺物
[板付遺跡E-5・6, P14]
“第4層-第9層が遺物包含層であるが第7層は板付Ⅰ式土器・夜臼式土器共伴層で第8-9層は夜臼式土器期の単純時期遺物包含層である。第7-第9層は一昨年度概要報告したG-7a・7b調査区確認の水田址に対応する時期であるため可能な限り図示した。第5層は多量の弥生時代各時期の遺物が出土したが … ”


第8層と第9層が夜臼式土器単純層である。最下層がE-5・6(板付会館)の第9層である。ここでは夜臼式土器を見ていますから、第7-第9層を見てみます。

第9層(夜臼式土器単純層)の土器


[板付遺跡E-5・6, P14]
“鉢(Fig.11 30-36) 鉢は図示できる破片が8点出土している。30は中位で立ち上がる口縁部が逆「く」の字状に強く反転して直線的に開く胴部につく。口縁部は内外面ともヘラ磨研の上から横ナデがなされ外面と内面上半に丹塗りが施される。屈折部から下の胴部は、内外面いずれも横位のヘラ磨研である。胎土は微砂粒を含むが精良で焼成は良好である。黒褐色を呈す。31は胴部上位で稜をもち内傾して垂直気味に立ち上がり口縁端部は強く外反し外面にかぶさる。胴部上位の屈折部分から口縁端部までは30などと比較して長い。… ”


第8層(夜臼式土器単純層)の土器


[板付遺跡E-5・6, P25]
“鉢(Fig.18 93-98) 93-95は口唇部が外反する口縁部で97・98は屈曲部下の胴部片である。いずれも黒色を呈し胎土には微砂粒を含み硬緻で焼成は良い。器面は表裏ともヘラ磨研である。96は4ヶ所に突起をもつものと思われるが1ヶ所の突起片が出土したのみで、浅鉢になると思われるが高杯状になるかもしれない。黒色を呈し胎土には微砂粒を含み硬緻で焼成も良い。器面は入念なヘラ磨研が加えられている。”

 
第7層(板付式土器共伴層)の土器


[板付遺跡E-5・6, P32]
“夜臼式土器・鉢…(Fig.24 155~161 …) 
155~158・161は胴部上位で屈折する。155の屈折は強く沈線からは垂直に立ち上がる。156は155に比較して屈折が少なく口縁部にかけて外反する。157はさらに屈折が少なく屈折部と口縁部の径はほぼ等しい。158は口径14.8cmを計り、小形で胴部は深い。…
板付Ⅰ式土器・壷(Fig.24 162~166)
162~164は肩部に彩文のある土器である。162は丹で沈線と交互に平行文を施しその下に複線山形文を施す。163は一条の沈線に区画され黒色顔料で沈線より上部に …”


2遺跡の土層の対応
板付遺跡G-7a・bと板付遺跡E―5・6は、200m程しか距離的に離れていません。土層はほぼ同じです。しかしE―5・6は東側が小溝で掘り込まれ第8・9層として河原になっており、ここから縄文晩期の遺物が発掘されています。少し異なる部分があるので、次図で2つの遺跡の土層の対応表を作ってみました。左下と右下の四角枠が夜臼式土器単純層です。その上の四角枠は板付式土器共伴層であり、2つの遺跡で共通しています。

下段両側の四角枠中、背景色のある層(左枠は第11層、右枠は第9b層)が、同じ砂層であると仮定します。夜臼式土器単純層の途中、海面再上昇により一旦水没しています。この水没が2つの遺跡で共通です。つまり縄文海進はまだ完全には終わっていなかった。これが縄文晩期終末の末の縄文海進の最後のゆれ戻しです。この後は弥生海退が本格的に始まり板付式土器が現れます。一方、右下枠だけが土層が細分化されていますが、これは小溝の河原の土層ですから小溝の小洪水が数回あったと考えています。海進と仮定している背景色の土層の下の土層を比べると、2つの遺跡でほとんど同じ、または左下枠のG-7a・bの第14層が少し古いかもしれません。しかし小溝の河原と同等に比べることはできません。前述したように差があっても数十年程度でほとんど同じ時期であるとします。


引用文献
1. [山の寺梶木遺跡]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14772
県内主要遺跡内容確認調査報告書2, 長崎県文化財調査報告書151, 長崎県教育委員会, 1999. 

2. [里田原遺跡]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/15744
里田原遺跡, 
町道里田原西線改良工事に伴う調査, 田平町文化財調査報告書5, 田平町教育委員会, 1992.

3. [御笠地区]
九博, https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html, No.154
御笠地区遺跡 御笠地区県営圃場整備事業に伴う発掘調査, 筑紫野市文化財調査報告書第15集 本文編, p138, 筑紫野市教育委員会, 1986. 

4. [十郎川(二)] 十郎川 二, 福岡市早良平野 石丸・古川遺跡, pp.11-14 pp.27- pp.87- pp.133- pp.139- 図版6-29 図版30-47 第4章図版1-4, 住宅・都市整備公団九州支社発行, 福岡市教育委員会編集, 1982. (購入書籍)

5. [諸岡遺跡F区]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16949
板付周辺遺跡調査報告書(3), 
福岡市埋蔵文化財調査報告書36, 福岡市教育委員会, 1976.

6. [板付遺跡G-7a・b]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16963
福岡市板付遺跡調査概報(5)1977~8年度, 
福岡市埋蔵文化財調査報告書49, 福岡市教育委員会, 1979.

7. [板付遺跡E-5・6]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17012
板付, 板付会館建設に伴う発掘調査報告書, 
福岡市埋蔵文化財調査報告書73, 福岡市教育委員会, 1981.

8. [板付遺跡E-5b]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17026
板付周辺遺跡調査報告書(8), 
福岡市埋蔵文化財調査報告書83, 福岡市教育委員会, 1982.

9. [橋本一丁田遺跡Ⅱ区]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/19713
福岡外環状道路関係埋蔵文化財調査報告5, 
福岡市西区橋本一丁田遺跡第2次調査・橋本遺跡第1次調査, 福岡市埋蔵文化財調査報告書582, 福岡市教育委員会, 1998.

10. [那珂遺跡37次]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17660
那珂11, 二重環濠集落の調査, 
福岡市埋蔵文化財調査報告書366, 福岡市教育委員会, 1994.

11. [比恵遺跡6次遺構]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17040
比恵遺跡, 第6次調査・遺構編, 
福岡市埋蔵文化財調査報告書94, 福岡市教育委員会, 1983.

12. [雀居遺跡4次]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17742
雀居遺跡2, 福岡空港西側整備に伴う埋蔵文化財調査報告, 
福岡市埋蔵文化財調査報告書406, 福岡市教育委員会, 1995.