中・寺尾遺跡

遠賀川式土器だけ出土します。糟屋郡宇美町から峠を越えて、御笠川流域つまり福岡市および大野城市に入った地点での、遠賀川式土器の拠点集落です。
[中・寺尾, pp5-6]
“第1次調査(1969年6~7月)『中・寺尾遺跡』-大野町の文化財第三集-大野町教育委員会1971
 調査地をⅠ区(東半)とⅡ区(東半)に分けて実施。Ⅰ区では土坑墓12基、甕棺墓21基、不整形ピット2基が検出された。Ⅱ区では54基の土坑墓中8基から副葬小壺が出土した。板付Ⅰ式と考えられる。一方、Ⅰ区の甕棺墓中5基からやはり副葬小壺が出土した。これは板付Ⅱ式に属す。以上から弥生前期の墓制として土坑墓から甕棺墓への変遷が認められるとした。”


次図の上段右、1次調査出土土器(Ⅱ区土坑墓副葬)が、板付Ⅰ式の土器の小壺です。最初に板付遺跡で出土したので板付Ⅰ式と名が付いています。板付遺跡G7abの7-9土層です。あとで西日本の広範囲で出土することがわかり、上陸地点の遠賀川の芦屋の名をとって遠賀川式土器と呼ばれます。板付遺跡の発掘調査での板付Ⅰ式、板付Ⅱ式、板付Ⅱb式という土器編年での呼び名もあります。板付Ⅰ式ですから、日本の遠賀川式土器の最初期の壺です。そして、これは中国の殷墟時代の『Xindian culture』(BC1300-BC1000)の壺、彩陶そのものです。ただし「雙耳」は無です。『Xindian culture』は別に後述します。なぜ「雙耳」が無いかも少しお話します。

次図の上段左、1次調査出土土器(Ⅰ区甕棺墓副葬)が、板付Ⅱ式の土器です。板付Ⅰ式の壺の形状を継承しています。さらに幾何学的に櫛型文が刻まれています。当時の朝鮮半島では既に無くなっていた櫛型文が、九州北部で再び復活しています。さらに彩陶の特徴である『painted』が塗られています。『painted』も別に後述します。
[中・寺尾, p7]

図の下段左、2次調査出土土器です。次の説明があります。
[中・寺尾, p6]
“第2次調査(1976年5~7月)『中・寺尾遺跡』大野城市教育委員会1977
 調査区の東半部で竪穴住居跡12軒、竪穴状遺構6基、土坑墓1基、石棺1基が検出された。西半部で甕棺墓27基、土坑墓19基が検出された。土坑墓9基と甕棺墓6基から副葬小壺が出土した。土坑墓の副葬小壺は板付Ⅱb式に属し、1次調査の所見より存続年代が一時期下がることが判明した。また、甕棺墓副葬小壺は土坑墓副葬小壺より若干新しく前期後葉~末に位置づけられる。甕棺は一型式と設定できるものである。”

 

板付Ⅱb式ですから、板付Ⅰ式さらに板付Ⅱ式より後の時代です。図では一番新しい土器です。左上の板付Ⅱ式と似ていますが、土器製作時の処理法などに少し差異があります。


*『painted』

[雀居2, 巻頭図版2 No.12(SX12出土)]
 

彩陶は「painted pottery」と呼ばれます。日本では彩文土器と呼ばれます。色で文様を描いてあるのが『painted』です。写真の土器の器形と文様は板付Ⅱ式に似ています。この文様は中国の『Xindian culture』には無く、日本の彩文土器です。しかし、よくみると頚部は曲線的ではなく「くの字」に曲がる『Xindian culture』の壺の特徴をまだ踏襲しています。遠賀川式土器が上陸したての最初期の板付Ⅰ式です。一方で器形はほぼ球形に近く、朝鮮半島渡来の無文土器の影響を既に受けています。遠賀川式土器が最初に上陸してから少し時間が経っている土器です。板付Ⅰ式の新しい時期とされています。


[雀居2, p119]
“彩文土器である。すべて赤色顔料で描かれている。... SX12から出土した略完形の壷である。口径10.4cm、頚径9・3cm、胴径16・5cm、底径7.0cm、器高19.1cmを測る。丸味の強い胴部を有し、器面は黒色で全面に研磨が施されている。彩文は、口縁部外面の口唇部と頚部が横線、胴部上半が有軸羽状文になっている。口縁内面には連続した短線が描かれている。この壷は胴の張った特異な形態を有しているが、板付Ⅰ式の新しい時期に属するのではなかろうか。”



*『Xindian culture』
 『Xindian culture』は、中国の殷(商)後期(BC1300-BC1000)の甘粛省の文化です。殷(商)末のヘイトで有名な「斉羌(さいきょう)」の部族地域です。BC1046の周の建国により殷(商)は滅亡しました。「斉羌」は山東省北に国替えになりました。後の戦国時代の「斉」です。殷(商)は遼西の赤峰の地方豪族に隠遁しました。しかし赤峰地域では殷(商)文化がそのまま継続していました。BC771に周が東周となり国力は衰え、春秋戦国時代が始まります。旧殷(商)の宿敵である周が衰え、この時に遼西の旧殷(商)が活動を再開しました。旧殷(商)勢力の青銅器・土器が朝鮮半島に活発に現れます。遼西の青銅器が「遼寧式銅剣」です。別名びわこ型銅剣です。広型です。BC771、この時が日本の芦屋に遠賀川式土器が上陸した時期です。板付Ⅰ式土器の始まりです。
 ただし殷(商)末のヘイトがあまりにも壮絶です。記録に残っているだけでも羌族への虐待は激しいです。発掘調査でも殷(商)末の首をはねられ遺骨が数十体まとめて出土したりします。ほぼ伝説・記録通りです。


御笠川東岸の遠賀川式土器の遺跡
御笠川東岸は遠賀川式土器の拠点です。遠賀川式土器の最初期の土器つまり板付Ⅰ式土器だけを出土する遺跡がいくつかあります。
BC771頃にまとまった人数の移民があったようです。

[板付周辺21集, p11]
図中の『天神森』は下月隈天神森遺跡です。北の福岡市博多区の福岡空港南端の東側山裾です。ここも遠賀川式土器だけ出土する大きな拠点です。この天神森は発掘調査報告書のPDFがありますから後述します。『御陵前ノ椽』(ごりょうまえのえん)遺跡は大野城市です。中寺尾遺跡の500mほど北です。発掘調査報告書は書誌しかありませんが、「大野城市歴史資料展示室 解説シート」から少し紹介します。

 

 

*『天神森』

[下月隈天神森Ⅲ, pp57-58] から図の各土器の分類は次である。
Ⅰ類 :9
Ⅱ類 :1,12,19,20,24,25
Ⅱ類に近いまたは近似 :4,7
Ⅱ類とⅢ類の中間形態 :22
Ⅲ類 :11,13
Ⅳ類 :16
Ⅴ類 :6,8

Ⅰ類
[下月隈天神森Ⅲ, p57] 
“中小型壺は次の三種類に細分される。
Ⅰ類-14号木棺墓の壺9を標識とする。胴部上半に最大径をとり肩、頚部の境に明瞭な段をもち、口縁部を肥厚させる形態。頚部の内傾は強く直線的である。”


Ⅰ類は9です。耳無しですが、ほぼ『Xindian culture』の土器です。Ⅰ類は『肩、頚部の境に明瞭な段』があります。遠賀川式土器の最初期です。板付Ⅰ式土器です。全体の器形は「ひょうたん」のような形です。


※ 遠賀川の芦屋の西隣、宗像の釣川下流の伝説では、"最初に「ひょうたん」を下げて、現在の岡垣町の大国主神社あたりから降りてきたので、『瓢公』と呼ばれるようになった。" との逸話があります。逸話の「ひょうたん」は、遠賀川式土器の器形の比喩かもしれません。さらに背の高い長顔の巨人を伴っていたかもしれません。本当に水筒の瓢箪を腰に下げていたかもしれません。この逸話はBC771頃かもしれません。

Ⅱ類
[下月隈天神森Ⅲ, p57] 
“II類-26号木棺墓出土の壺20を標式とする。胴部が球形に近く最大径を胴部中位にとり段が不明瞭となる。頚部は直線的ではなく外反する。”


Ⅱ類は、胴部がほぼ球形です。遠賀川式土器として九州北部で変容していきます。

Ⅲ類
[下月隈天神森Ⅲ, p57] 
“III類-肩部の段が更に不明瞭となり、口縁部の肥厚はなくなり外面の段は消滅する。17号木棺墓の壺11を標式とする。”


Ⅲ類は、Ⅰ類に必ずあった『肩、頚部の境の明瞭な段』が消えます。全体の器形は、Ⅱ類の球形からⅠ類に近い「ひょうたん」形に逆戻りします。Ⅰ類と見分けにくいですが、Ⅰ類との差異は『明瞭な段』です。

Ⅳ類とⅤ類
[下月隈天神森Ⅲ, p57] 
“Ⅳ類-16を標式とする。肩が強く張り、底部は直接胴部と続き円盤貼り付け状とはならない。胴部上半に復線山形文を描く。Ⅴ類-6、8のようにⅠ~Ⅳ類に属しない形態。”

Ⅳ類とⅤ類は少ないです。Ⅰ類~Ⅲ類に分類されないもののようです。


次回に続く


引用文献
5. [中・寺尾]
九博, https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html, No.312
中・寺尾遺跡III, 大野城市文化財調査報告書第54集, 大野城市教育委員会, 1999.

5-2. [雀居2]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17742
雀居遺跡2, 福岡市埋蔵文化財調査報告書第406集, 福岡市教育委員会, 1995.

5-3. [板付周辺21集]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/19836
板付周辺遺跡調査報告書第21集, 福岡市埋蔵文化財調査報告書第640集, 福岡市教育委員会, 2000.

5-4. [下月隈天神森Ⅲ]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17846
下月隈天神森遺跡Ⅲ, 都市計画道路福岡空港線・高木下月隈線建設に伴う埋蔵文化財調査, 福岡市埋蔵文化財調査報告書第457集, 福岡市教育委員会, 1996.

5-5. [御陵前ノ椽・書誌]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/58310 
御陵前ノ椽遺跡, 大野城市文化財調査報告書48, 大野城市教育委員会, 1997.

 

5-6. [御陵前ノ椽・考古No.20]
大野城市歴史資料展示室 解説シート 考古No.20, 大野城市教育委員会.
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/s077/030/010/120/020/kouko-20.pdf

http://www.city.onojo.fukuoka.jp/s077/030/010/120/040/20170803163832.html


5-7. [柚比遺跡群2 第1分冊]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/18633 
柚比( ゆび) 遺跡群2 第1分冊, 前田( まえだ) 遺跡, 鳥栖北部丘陵新都市関係文化財調査報告書3, 佐賀県文化財調査報告書第150集, 佐賀県教育委員会, 2002年3月.