サンデーサイレンス産駒の時代(1) | ワイビーのブログ(おもに競馬)

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ここ10数年間めざましい発展を遂げている日本の競馬。

 

海外の大レースは毎年のように勝利。芝最高峰の凱旋門賞では4度にわたる2着を経験しており、これまで未知の世界だったダート路線でもナンバーワン決定戦であるブリーダーズカップクラシックで遂に連対、さらにケンタッキーダービーでも最高着順、それも勝ち馬に際どく詰め寄った3着。芝もダートも世界一のところまであと一歩のところまできています。

 

日本の馬が活躍しているのは海外遠征だけではありません。

 

現役を終えて海外で種牡馬となって、数多くのGⅠホースを輩出したり、リーディングサイヤーに輝いたり。また、日本の種牡馬を求めて海外の有力な生産者・馬主が所有する繁殖牝馬を送り込み、そこで生まれた馬が本場ヨーロッパのクラシックレースを次々と勝利。2023年には本場イギリスのエプソムダービーを制覇するに至っています。

 

これら国内外で活躍している馬たちの血統をさかのぼると、ほぼ例外なく1頭の馬の名前にたどりつきます。

 

サンデーサイレンス。

 

まだ競馬後進国だった日本に種牡馬としてやってきた北米の二冠馬は、瞬く間に日本競馬を席巻。13年連続でリーディングサイヤーに君臨し、通算勝利数、重賞勝利数、GⅠ勝利数など多くの記録を塗り替えてきました。

 

日本競馬に革命を起こしたサンデーサイレンスの血は今も脈々と流れています。

 

イクイノックスやリバティアイランドにも、2020年のジャパンカップで歴史的な一戦を演じた3頭の三冠馬にも。血統表のどこかにサンデーサイレンスの名前が刻まれているのです。

 

今年で初年度世代がデビューしてから30年の節目。軽く現役時代を振り返りつつ最後のGⅠ勝利となった2007年まで、サンデーサイレンス産駒が活躍していた時代を振り返りたいと思います。

 

 

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サンデーサイレンスは1986年、アメリカ生まれ。当時の日本の競走馬にあてはめると、オグリキャップのひとつ下、メジロマックイーンのひとつ上にあたります。

 

今でこそ伝説の存在となっているサンデーサイレンスですが、当時のアメリカではお世辞にも高い評価を受けていたわけではありませんでした。

 

父、母ともに活躍馬を出している血統ではなかったこと、足が曲がっていたことなどから、セリに出されては買い手がつかずの繰り返し。さらには重病にかかって生死の境をさまよったり、乗っていた馬運車が横転して重傷を負ったりと、踏んだり蹴ったりの幼少期を過ごしていました。

 

年月は経ち1988年10月にサンデーサイレンスはデビュー。2着、1着、2着と特筆する点のない成績でその年を終えます。

 

明けて1989年。3月に復帰してからは一般戦、G2戦と連勝。さらにケンタッキーダービーの重要ステップレースのひとつサンタアニタダービーでは、2着に11馬身差をつける圧勝劇を見せて一気にスターダムへのし上がっていきます。

 

迎えたケンタッキーダービー。このレースでサンデーサイレンスは生涯のライバルとなるイージーゴアと初めての対決を迎えました。

 

イージーゴアの父アリダーはケンタッキーダービー馬アリシーバらGⅠ馬を多数輩出している名種牡馬で、母系にも活躍馬がずらりとならぶ良血馬。サンデーサイレンスとは対象的な存在で、このレースでも1番人気に支持されていました。

 

サンデーサイレンスはスタート直後に他馬とぶつかり、直線で先頭にたったあとは右へ左へ蛇行、お行儀の悪いレースぶりを見せましたが、それでもイージーゴア以下を完封して優勝します。

 

続くプリークネスステークスでは、最後の直線でイージーゴアと火の出るようなマッチレース制して二冠達成。1976年のアファームド以来13年ぶりの三冠制覇に王手をかけました。

 

三冠目のベルモントステークス。イージーゴーアが4コーナー手前で先にスパート。好位を走っていたサンデーサイレンスを抜き去り、一気にその差を広げていきます。

 

出し抜けをくらった格好のサンデーサイレンス。ヴァレンズエラ騎手がムチを入れて必死においますが、その差は縮まるどころか開く一方。最後は8馬身差をつけてイージーゴアがライバルの三冠を阻止してみせました。

 

イージーゴアの父アリダーは、現役時代三冠レースが全てアファームドの2着。父の二の舞は踏むまいとしたかのような圧勝劇でした。

 

三冠奪取がならなかったサンデーサイレンス。その後7月のGⅡ2着と連敗。2ヶ月後のGⅠスーパーダービーを圧勝し、秋の大目標であるブリーダーズカップクラシックで、イージーゴアと4度目の対決を迎えます。

 

 

 

序盤好位で進めるサンデーサイレンス。マークするように後方を走るイージーゴア。三冠レースと同じシチュエーションで進んで行きます。4コーナー手前で先にしかけたサンデーサイレンスに対し、ついて行こうとするイージーゴアはギアが上がらず両者の差が少し広がります。

 

この差が明暗を分けました。

 

直線で前を行くブラッシングジョンを激しいデッドヒートの末競り落としたサンデーサイレンスが、ようやくエンジンがかかって追い込んで来たイージーゴアを辛くも抑えて1着。ベルモントステークスの借りを返しました。

 

この勝利でもって、サンデーサイレンスはエクリプス賞(年度代表馬)を獲得。買い手のつかなかった目立たない血統の馬が、並み居るエリートたちを破り頂点へと駆け上がりました。

 

翌90年6月、復帰戦を勝利で飾りGⅠハリウッドゴールドカップへと駒を進めたサンデーサイレンスでしたが、クリミナルタイプと接戦の末2着に惜敗ののち脚部不安を発症して現役を引退、種牡馬入りすることとなりました。

 

北米の二冠馬、しかもブリーダーズカップクラシックを勝った年度代表馬にもかかわらず、活躍馬をだしていない血統のゆえか種付けの申し込みが殆どありませんでした。

 

一方で、同じ時期に骨折をして引退したイージーゴアは引く手あまた。ここでもまたライバルが壁となって立ちはだかることとなったのです。

 

不人気に頭を抱えていた馬主のアーサー・ハンコック氏にサンデーサイレンスの売却をもちかけたのが、社台ファームの総帥吉田善哉氏でした。

 

サンデーサイレンスの現役時代の途中で共同所有者の権利を持っていた吉田氏は、ハンコック氏の説得に成功し、日本へサンデーサイレンスを連れてくることとなりました。

 

オグリキャップが有馬記念で感動のラストランを演じ、日本の競馬人気が最高潮に達しようとしていた年。サンデーサイレンスは海を渡り、日本へ。日本競馬の革命はこうして始まりました。