教会生活で、話が合う合わないとか、熱心な人や年長者の同調圧力があるとか、いろいろと感じる所があると思います。
たとえば、「世界の貧困について」、という発言すると、「自分のことさえ、家のことさえ、この教会のことさえ、近所隣人のことさえ救えないのに」、と必ず返す方がいらっしゃいます。その方の思いは思いとして、その方にとってはそれが大変な課題なのだと言えます。だから、テーマが違うと指摘できる関係ならとても良いですし、逆に相手に同意を求められている雰囲気なら「なるほど、確かにそうですね」と心から尊敬を込めて共感すれば良いのだと思います。
自分が問題に感じることと、他の人の今感じている課題は違うことも当然あります。身近なことで精いっぱいの境遇もあります。
確かに聖書によれば、「全世界に出て行って」となりますが、差し迫った身近な問題がその人にとって「全て」に見えることもあります。
私たちは、あらゆる誠実な信仰の姿勢に尊敬を持つべきです。お互いに欠けのある人間だからこそ、信仰を持っているのですし。
ただ、お互いに、自分の重荷を他人に負わせようとしないように気をつけたいですね。自分が苦労した経緯と、相手の経験とはほぼ全く違うのですから。
そして、同じ重荷を持つ人との出会いや連携することも望みながら、他の様々な重荷を持つ人たちと心から繋がることも望みましょう。それは霊的信仰的にとても有益なことです。
しかし、あまりに自分とかけ離れた意見しか共感されず、多様性を認めない集いなら、距離を置くのも良いと思います。無理をすれば、互いに我慢できずに関係がこじれることも人間ですからあります。悪い時は、互いに聖書をふりかざして裁き合いなどにもなってしまいます。
若い時は、私もやってしまっていました。情熱があっても感情的にならないようになるのは、様々に苦労を知り、「自分もそうだが他の人の苦労もある」と、「お互い様」だと思いやれるようになることが必要なようです。ただ、若い時は「努力すればどうにかなる」と思いやすい時期なので、どこかでつい軽蔑してしまう感情があるのも仕方ないかもしれません。
教会では、様々な経験を経た年長者が、次世代の証しを担う信仰の若い人を、それぞれに経験を積むことを前提に許容範囲に余裕を持ち、どんな思いで進んでいるか知ってあげるべきだと、今は逆の立場から思います。
そのためには、互いに自分の経験や信仰の範囲を守ろうとする自我の本能的防御について、誰にでもあるものとして、自分を例外にせずに、客観的に自分の自我を把握できるように、ある程度大人になって行く必要があります。若い芽をつぶさないためです。
若くても歳を重ねても、信仰をもってなお感情的に不満が噴出する人は、我慢しすぎたか、自分に厳しすぎたか、または逆にこれまで思い通りに事を運び過ぎたのかもしれませんね。それこそ、神様の前に感情をそのまま差し出すしかありません。だれでも不完全な人間ですし、人間には嘆きがつきものですから。それを信仰年齢を重ねる程に悟る者となりたいと願います。そして、自我を選ばず、主の導きのままを歩みたいのです。
自分の歩いてきた道がいくら苦労に満ちていても、自分の意見を相手に無理に同意させたりせず、それぞれの苦労を認め合う姿勢が欲しい所です。
互いにじっくりと相手の話を聞くだけの心と耳を持ち、互いの証しによって成長することができる教会が理想です。