ずっと信じてくれ、いつも助けてくれていた。

大事にしてくれていた。

そんな事務所社長を裏切る気持ちなんてまったくなかったのに。


ただ私は、いっぱい仕事をもらえて、仕事ができれば、そしてお金になれば、と思っていただけなのに。


結局のところ、社長を裏切ることになってしまった。


当たり前だ。


社長がいたからこそ今まで仕事もらってきたし歩き方も話し方もオーディションの受け方も、宣材写真の撮りかたも全部全部教えてもらえていたのに。


結局、私は自分の身勝手さで一番大事な人からの信頼を失ってしまった。


フリーになると、仕事はいっきに入ってきたが、

ある時を境にいっきに仕事はなくなった。


事務所にいた頃は、社長が仕事がないときも、街頭でのキャンペーン仕事もふってくれたし、なんとかコンスタントに仕事が入ったのは、社長のはからいだったんだと、失ってようやく気づいた優しさ。


突然私はまた仕事もなくなって、今度は逃げ道さえもなくなってしまいました。


少しゆっくりしました。

自宅で、ゆっくりしました。


ようやく自分の家でゆっくりできるようになりました。

当たり前だ。

行く場所もやることもお金すらないんだもん。家族に甘えるしかないでしょう。


突然、テレビ局時代に一緒に遊んでいたサルみたいな、いつも「うぃっきー」といっている友人から電話がある日かかってきた。

辛い日々に、それは嬉しい電話だった。

ちょっとした、出来事だった。


「元気だよ」

言う言葉に、チカラが入っていなかったのか、

クビになった私が相当惨めにみえたのか、彼は、会話のトチュウで、ポロリと、


「俺のすねでもかじってりゃいいじゃん」

とか、言った。


え?それはどういうことなんじゃましょ。


受話器を持ちながら「うーんうーん」と

頭を抱えながら、少ない脳みそで、「すねをかじる」っていう言葉が持つ深い意味まで探る。探る。考える。


でもよくわからないので、
「また電話ちょーだい」

といって、電話を切って下に下りて、父と母とテレビを観た。


どうでもいいような気がしたが、

どうでもよくないような気がした。


あとにも先にも彼からは電話はかかってこず、

その代わりに、5年連続彼自身の写真付き年賀状が毎年届けられて、一言二言メッセージが書いてあった。「どうしてる」とか「元気?」とかそのようなもの。

イケメンの自分の姿を見せて、

「いつでも連絡して」って年賀状が、彼の代わりに私に話しかけているみたいな気がした。


すごーくすごーく月日が経ってから、あれはプロポーズだったんだと、私は気づいた。

が、遅かった。


ふりかえってる暇はない。


結局、私はコンパニオン時代に知った「広告代理店」が楽しそうなイメージがして、

つまらないこの無職の日々から楽しい場所へと引っぱりだしてくれるような気がして、

「広告代理店」への派遣先もある人材派遣会社に登録し、空きを待った。

すぐに電話があり、面接に行き、採用が決まった。


中堅の広告代理店。

私は役員の秘書ということで採用された。


くせのあるボスに、超いい加減な私。

秘書なんて仕事が勤まるか、実際私は不安だった。

スーツなんて、合コン用のものしかもっていないし敬語なんて使えないし。

それに毎日会社に行けるのかしら。


不安なことはいっぱいあったけれど、

もう行くしかなかった。


だって、どこにも私の居場所はなかったんだもの。

退院後の、自宅での私の闘病生活は、それはそれは寂しいものでした。


毎日午前5時まで、ヒール鳴らして西麻布でかっとんでいたうら若き乙女が、

いきなり、床に伏せる生活を虐げられる。


こんなの、ってあり?


最初のうちは、疲れもとれてゆくので、少しは心地よかった。

病院の食事よりも、美味しい食事。

それになにより、実家はあたたかかった。

父も母も、優しかった。

あれだけ、無茶をして、荒れ狂う娘の生活を知っていて、

戻ってくれば両手を広げて受け止めてくれる。


これが、家族なんだと、気づいた。

戻るべき場所があるということ。

これが家族のあるべき姿。


病気になって、職だけじゃなく、失ったものは多いけれど、得たものも多かった。


だから、私はあんまりこの時の自分をせめても、くやんでもいない。


とはいえ、お金も健康も仕事もない、今、どうやって生活をしたらいいんだろう。


自宅療養を始めて数日後に、私は、学生時代やっていたコンパニオンの仕事なら復活できるかもしれないと、思いついて、社長に電話をした。

実は私、OLになっても、「刺激を求めて」ときどき週末に、イベントのお手伝いで、コンパニオンやナレーターの仕事をしていた。内緒だけど。見付かったら首だけど。


だから、退院後に、自宅から社長に電話をしても、

「あらー久しぶり。今度はいつできるの?」

みたいな口調で、社長から仕事の話をしてきた。

嬉しいねぇ。

まだ自分の居場所がここにあったんじゃんか。


こっそりこっそり、体に負担ないように、コンパニオンの仕事をすることにした。

たちっぱなし、しゃべりっぱなしの仕事は辛いから、2時間以内の小さなイベント参加から、じょじょに働く時間を延ばしてゆく。体力に自信がついた頃に、フルで1日の仕事を入れるようにした。


こんなふうに、私は、半年かけて、普通の生活に戻した。

「自宅療養1年間」なんて、言ったあの医者たちに、いいたいよ。

私は、退院半年後で、ふつーに働けるようになりました。


ただ変ったのは、タバコを吸えなくなったこと。1本とて。

コンパニオン仲間が、休憩室で、プカプカ吸っている姿を見て、

「第二の私になるのは、どいつや?」

と、思ってさめざめと、見ておりました。


はじめてみると、コンパニオンの生活をメインにしたほうが、テレビ局のときの給料の何倍もいいことに気づいて、入院もクビも辛かったけれど、この生活に導くために、意味のあることだったのかも。

なんて、前向きに思えるようになりました。


事務所に所属しながら、プライベート専用の名詞も作りました。

あれだけ、社長に恩があったのに、社長を裏切るようなこと、それは直で仕事が来ないかなぁ、と営業を始めたのでした。


現場で、何気なく、名刺を渡す。


受け取った担当者から、ダイレクトに電話を貰う。


仕事の依頼だ!


コンパニオンの事務所を通した仕事の依頼だと、とにかくギャラが悪いのです。でも、現場で何かあったら、社長やマネージャーたちが、窓口になってくれるし、当日たとえば体調が悪くなっても、代わりがいる。

でもフリーランスで、ダイレクトに仕事を貰うと、そんなクッションがないかわりに、ギャラは格段いい。

たとえば、東京モーターショーに2週間出た場合。事務所経由だと、ギャラは1日1万円。交通費別。でもダイレクトに仕事が来た場合は、1日4万円。これが、2週間続くと、56万になってしまうよ。しかもキャッシュでドドーン。


これには、クセになる。

現場に出るたび、プライベートの名刺を配り、車で担当者に、送ってもらったり、まるで水商売のオンナが、客をつけるために、努力するみたいな、そんないやらしい営業活動を必死に私はやっていたのでした。

こびる自分は嫌だったけれど、自分が作った名刺に、自分にダイレクトに仕事の依頼が入り、自分で自分のスケジュールを管轄して、自分だけの予定をつくり、自分の稼ぎは自分でプログラミングしてゆく、その過程がとっても心地よかったのでした。

まるで、社長になっている気分。


そんな時、長年御世話になっている社長から、電話が。


「●ちゃん(私のあだ名)、プライベート名刺、現場で配ってるってホント?」


「え・・・!?」


・・・(どうしよう)・・・・・





あの頃の私は、きっと人生でいちばん不摂生な時期だったと、思う。


あとにもさきにも、あれだけ不摂生な時代はもうないだろう。


水分はほとんど、お酒。大量のタバコ。これだけが私の体の中に入るもので、

眠る時間なんて、もったいなくてほとんど寝ていなかった。


ある日、突然、私の体が、エンストを起こした。


それは、本当に、本当に、突然だった。


ともだちの家にいた時、急に息ができなくなって、胸が苦しくなって、

気づいたら、救急車の中だった。


でも、よく覚えていない。


覚えているのは、

乗る寸前に、実家の母に電話をして、

「私は、もう生きられない」

と言ったこと。だって息ができないんだもの。

私は、もう生きれないと、その時覚悟した。


病院に着くと、すぐに検査があり、私の肺は真っ黒で、

お水もたまり、

「急性肺炎で、即入院」

と言われた(そうな)。覚えていないから。


実家から、姉と母が、泣き叫ぶように、病室に駆け込み、

でも私は胸が苦しくて声もできないし、なんかわからん管だらけだから、

あんまり、しゃべられなかった。


だけど、思った。

病床で、思った。

「ずいぶん、親不孝しちまった」と。

家を出てずっと、都内の友人の家に身を寄せていた。

病気が私を、家族のもとへと、戻してくれた。


入院して、二日目に、局の直属の上司が大きな花束を抱えてやってきた。

うわぁ、大きい花束。

それって・・・。


上司は哀れんだ目で、私を長いことみて、その後、

「何も考えずにゆっくりして」

といって、そして去って行った。


あとで、母といろいろ話していたことを聞いた。

残念ながら、クビだということ。

仕事ができる人なんですね。本当はね。だけど、物足りないんですね。すぐに終わっちゃうから。

よくできる人なんです。

そんなことを思われていたなんて、思いもしなかったので、

後で聞いたとき、ほろリと、涙がこぼれた。


みんなわかってくれて、それで見逃してくれていたのか。

「でもやっぱりうちのデスクには、毎日ずっとずっと朝から夜まで電話の前にいられる人じゃなくちゃいけないんです」

勿体ない。私には。

そんなふうに、言ってくれていたらしい。


私は、退院間際に聞いて、決心した。

「今度こそ、自分の仕事が真剣にできる場所に身を置こう。

真剣に就職先を探そう。再就職で、自分に向いた仕事を見つけるんだ」


そう、思っていたのに・・・。

そう思っていたのに・・・。


私の担当医は、はっきりと言った。

「退院後、1年間は普通の生活に戻れないかもしれません。

1年間は、自宅療養をしてください」


それが信じられず、半ば強引に退院し、自宅近くの病院(大学時代の親友が看護師をしていたので)に

転院し、検査を受けるが、そこでも

「1年間完治までには時間が必要」

といわれてしまう。


結局、私が戻ったのは、

職場でもなく、遊ぶ場でもなく、長年暮らした自宅の自室。窓が大きくて、緑が見渡せる静かな静かなへやだった。


これから、私は、就職活動もできずに、ただただここで肺に負担がない、寝たきり生活を過ごさなくてはならないなんて・・・・。



新卒でありながら年収500万の9時5時OLを

僅か1年5ヶ月でgive upした先に、私が選んだのは、


時給800円のテレビ局内でのアルバイトライフでした。


六本木、麻布近辺なんて、徒歩圏内の派手派手テレビ局に、たとえバイトであろーが、勤められているんだもの。派手派手ライフを満喫しないわけがないでしょう。


と、私は、タクシー券で鼻をかみ、タレント控え室でお昼ご飯を食べたり、仕事中、好きな番組のON AIRがあれば、長時間スタジオにこもるという超いい加減な、いつ首になってもおかしくないような、バイト社員でした。若干23歳。お許し下さい。


なんて、許してくれるはずはなく、いつも部長に怒られておりました。部長だけでなく、室長や、社員たちにも、「あいつを何とかしろ」と、言われておりました。


でも、気にしないんだもん。


今思えば、私は、ただ「楽しいこと」がしたかっただけなんだと、思います、あの頃は。

それが「仕事」というジャンルでは、まだなかった。悲しいかな。キャリアもないし、社会は私を求めてはくれなかった。

あの頃、たとえテレビ局という職場であっても、「私にしかできない」私が必要とされるような、仕事があれば、きっと私は仕事に燃えていたと思う。

でも、伝票切って、コーヒー入れて、お金数えて、郵便物配るだけの、誰にでもできる仕事に、仕事という仕事のやりがいなんて、全然見つけられなくて、ここのバイトも入社して、数日で、


「つまんねーの」


なんて思ってしまったのでした。

いや、そんなことより!

動物園のような楽しい会社だから、そっちのほうが面白い。

今までは、社外合コンだったけれど(商社マンを狙っていたし)、これからは、「自給自足で行けるやないの!」なんて、(そんなことに気づいてどうする?)、社内で、ひたすら好きな人を探しまくり、飽きたら1Fのスタジオに行き、お気に入りのタレントを見て、生放送にこっそりスタジオにもぐりこむ、なんていう日々でした。


だって、仕事がつまんねーなら、あそびしか、ねぇーだろーが。


とにかくあの頃の私は、いい店に行き、

いい酒を浴びるように飲み、

いい男と会い、

いい思いを散々にしたのでした。


でも、好きな人とはいつもだめだった。


こんなふうに、

何かから逃げるように生きている女なんて

やっぱり魅力ないのよね。

ものほしそうにしているオンナなんて、コワイだけ。


その瞬間は、楽しくても、続く恋愛なんて、これっぽちもなかった。

仕事帰り、真夜中から楽しい酒飲んで、楽しく歌って、楽しく踊っても、その場限りの楽しさだった。


まるで、心の中の空白を必死こいて、カネと時間がふさいでいるような。

そんな日々の繰り返しだった。


確かに好きになった人は、いた。

すごく好きだった

(タレントさんじゃなくて、ちゃんとした社員)。


でも、私って恐かったのかな。ちょっと好き路線入ると、みんながみんな、ひいていった。

どこか、遠くに、消えていった。

近くに、いたのに、もう声なんて届かないところに、やつらは、さっさと飛んでいった。


そのたび、思った。

自分で好きになれない自分なんて、誰も好きになんてなってくれないんだな、と。

当たり前のことに、気づいた。


こんなふうに遊んでいる自分が情けなくなった。


仕事しよう。やっぱり仕事しよう。

もともと仕事したくて入ったテレビ局だったじゃない。

(いや、半分はオトコ目当てだったのかも)


慌てて仕事に燃えて、社内の権力者に(知り合いだったので)、

「社員にさせてくんろ」

と、ひそかに、「コネコネ作戦」を実行させ始めた。

だんだん大規模になり、私の態度もでかくなってきた頃・・・。


私は、ぶっ倒れてしまった・・・・。


続く。



最初に就職した会社は、六本木のバブリーなビルの中にある、外資系企業の日本支社だった。

なんでこんな会社に就職したのかというと、当時は六本木ヒルズも恵比寿ガーデンプレイスもないし、このビルに就職するのがステイタスだったから。


環境で就職先を選ぶことになんの迷いもなかった。

だって、OLなんて、そうでしょう。

就職しても、ちゃらちゃら生活して、お金持ちのオトコをゲットして、派手派手結婚式をやって、寿退社。

できれば、海外駐在員の奥様になりたいから、商社マンと結婚しようかしら。ならば、商社マンに受けが良さそうな、帰国子女の多い外資系企業にしましょうかねぇ。

なんて、それで決めた就職先だった。


その時は、自分の決断が20000%正しくて、完璧に自分の人生の正しき道を歩み始めた、選んだと信じてやまなかった。


だけど社員研修の二日目で、私は気づいた。というか決めた。

この会社はすぐにやめよう。


結局この会社は1年5ヵ月後に去ることになるのだが(もちろん同期トップ)、去ってゆく時、私が残された社員たちへの挨拶で、

「二日目に退職の決断をしました」

と、恥じることなく堂々と話した。

ここにいることは、必ずしも正しいことではない、少なくとも私にとっては。

それを、しっかり去ってゆく場所に伝えたかった。

思いが残ってしまわないように。


新卒でありながら初任給は手取りで30万ぐらいあり、

お休み(外資の場合、vacationという)は、10日もあり、

仕事は楽だし、自由だし、うるさいボスも臭いボスもいないし、

オフィスは清潔でおしゃれで、一人一人のデスクは広いし、とにかくあの会社は完璧だった。

ボーナスなんて、父に迫る勢いがあった。


だけど、私はここにいることが苦痛で仕方がなかった。

椅子にへばりついて、同じ時間に同じことをする日々を毎日毎日続けることに、限界を感じた。

というか、そんなことを続けていたら、自分の魂がどこかで、人生をボイコットしてしまうのであろうという恐怖に似た感情がふつふつと出てきて、こらえようもなくなった。


私は、こんなふうに、「惰性」や「計算」で、生きれるオンナじゃない。

いいだんな目当てに、こんなところに張り付いているぐらいだったら、自分で見つけてやる。オトコなんて。


それに、仕事だって、ちゃんとやりたい。やってやる。


金持ちオトコの妻になるための、つなぎ程度だった就職が、どうも私にはあっていなかった。


「オンナだって、ちゃんと仕事するほうがいい。自分にあった仕事をしたほうが、いいに決まってる」


気づいた時は、会社を辞めていた。


そして、私は、自分からつかんだ「商社マンの妻、海外駐在員の妻」への道の切符を、簡単に手放し、背を向け、時給800円のアルバイト生活を始めました。

仕事なんてしなくても、少し待てば失業手当てが貰え、バイト代以上の額面になるというのは間違えなかったのに。

働かないで、お金を貰うなんて当時の私には、まったく考えられなかった。


私は、働きたい人でした。


続く・・・・