ああ、このスケートが見たかったのだ。
RE_PRAYの感想として、真っ先に浮かぶ言葉です。
そう、夏のアイスショーが終わったら、今度は24時間テレビ、それからチャレンジャー、GPSといった試合で羽生君のスケートを見るのが当たり前でした。
それが一変したのが昨年。いや、正確には、昨年は11月初旬からプロローグの前に、24時間テレビの出演がありました。試合にはでなくなっても、それまでと同じ時間間隔で見ることができていました。
今年の単独アイスショーも、昨年と同じような日程です。だけど、24時間テレビの出演がなかったのが自分にとっては大きかったようです。今年はでないのね、残念、ぐらいですませていたはずが、実はちがってたんだと、昨日、RE_PRAYをみてつくづく思い知りました。
羽生君を、先日、佳生君が、1000年に1度のスケーターという表現を使ってました。思わずにや、っとしてしまいました。この言葉通り1000年に1度かどうかはともかくとして、この10年あまり、今も、そしておそらく将来も、自分が見たいスケートをするスケーターというと真っ先に思い浮かぶのはまちがいありますまい。
ジャンパーとしては、最高のアクセル、理想のループを跳ぶ選手です。エッジ系ジャンプのほうが好きですが、トウ系もすばらしいです。あれよりよい4Tってなかなか思い浮かばない。ちょいと難があるのはエッジが立ちがちなFぐらいでしょうか。
だけどなんといってもすごいと思うのは、
究極のエッジの使い手、ということ。
RE_PRAY前半で音楽なしですべるところあったじゃないですか。もうわくわくしっぱなしでした。あのエッジコントロール。うそみたい。ただもうすごいです。クリケで磨いてきたスケート技術のたまものでしょう。このエッジコントロールを体の使い方でさらに活かしている、といったところでしょうか。あの正確に氷を削るエッジの技術があってこそ、氷上で体がより自由に使えるわけです。
そういう意味では羽生君のスケートはカナダのスケート、ということができます。
だけどですね、羽生君のスケートって、純粋なカナダのスケートかっていうと、そうではない、といいきることができます。断じてちがう。
すばらしいカナダのスケートというと、オーサー、カート、ストイコ、バトル、パトリック・チャン、国籍はちがいますけど、今ならジュンファン。シングルではないですけど、究極はテサモエかなあ。一人をのぞいてみな、WCチャンピオンになってます。最高のスケートのスタイルの一つとみなされてきたということでしょう。それでいて、シングルでオリンピックチャンピオンになったのは、なぜだかいません。のろい、といわれるゆえんです。
その特徴は、エッジコントロールを身につけた上で、体全体を使うこと。
この特徴は羽生君ももってます。クリケ以前はなかった要素ですから、カナダのスケートを身につけたということ。だけど、羽生君のスケートには明らかに違う要素があります。
何がちがうか。
体重と重力、です。
体重と重力をあまりかんじさせず、天にむかう踊りか、
体重と重力そのままに、地にむかう踊りか。
ダンスってこの二つに大別できると思うんです。前者がクラシックバレエ。モダンはこちらにはいるものとそうでないものがあるかな。後者はフラメンコ、日舞など。
アイドル系ダンスというかポップスというか、ヒップホップというか、どういえば一番いいのかわかってないですが、ともかく、この手のダンスは中間が多いでしょうか。BTSとか。正確には上向きよりの中間かなあ。逆に下よりで究極かもしれないと思うのが、平野紫耀君。重さを自在に扱っているようなところがあります。ものすごくきれいなラインでキレキレな一方で、重さを操るっていったい???不思議です。
で、カナダのスケートのみならず、フィギュアスケート全般がよくもわるくも「体重と重力」を感じるものじゃないですか?ジャンプはそこから逃れようとする手段というか。
もちろん例外はあって、演目によっては天に向かう動きをみることができます。浅田真央ちゃんのショパンのノクターンとか。
だけど、羽生君ほど徹底して上に向かう、天に向かう感触を与えてくれるスケーターって知りません。羽根とか花びらが舞うのに近い感触です。あるいは、バレエのトウシューズの踊り。トウというごく小さな地面との接点で踊るバレリーナのように、羽生君は最小限のエッジ面積で氷に触れているのじゃないか、って思ってしまう。シルフィードや白鳥のように重力から解放されることを願うクラシックバレエの理想を氷上でみているような気がします。
ジャンプもそうです。羽生君のジャンプは、筋力をつかって力で飛ぶ、というより、重力からの解放というダンスノーブルのジャンプと共通点を感じますし。あ、あくまでよいダンスノーブルのジャンプ、ですよ。王子様が似合う気品あふれる主役級の男性ダンサーは、重力の影響をもろにうけて、どすっとおりるものじゃないでしょ?やるぜ、このパワーをみろ、ばんととび、どんと降りる、じゃダメです。いかにすごいジャンプでもね。そういうのは、ダンス・キャラクテールにやっていただきたい。
こういうクラシックバレエの究極の理想に近いような感触をほぼ常に味わせてくれるスケーターって、ほんと、羽生君しか知りません。こんなこというと、本人はいやがりそうな気はするけど。
わかりやすいのは、羽生君とジュンファンのイナバウアーをみくらべてみるといいのじゃないかしら。私はどちらも大好きですが、同じ柔軟牲を備えた動きをしているのに、エッジのもたらす感触はあまりにもちがいます。重みをかんじさせ、ごーっという氷を削る音がするにちがいないというジュンファンに対して、上へ、上へと向かい、軽く抵抗感が少なく、というのが羽生君。
今回のRE_PRAYでは、新曲「鶏と蛇と豚」、ゲーム楽曲の「Megalovania」、「破滅への使者」をすべりましたが、仮に、他の表現力のあるスケーターがこのプログラムをすべったとしたら、もっとひきずるような気持ちになったと思うんです。羽生君がすべると、突き刺すような鋭さは感じても、のしかかるような耐えがたい重さにならず、昇華がどこかでくることを予感させるというか。スケートの感触にあわせてか、おさえられていた気持ちが終わった後、上に行こうとするのがわかります。好みによるはずで、とことん、重みをつきつめたい人にはものたらないかもしれないですね。突き刺さりかたが強烈に思う成果、私にはほっとする要素ではあります。
バレエをやっているからといって、この上向きのかんじが必ずしも伴うわけでないんですよね。ロシア女子などバレエの基礎をたたきこまれているのが端々の動きでわかりますけど、上向きへの感触はそこまでではない。3Aとぼうが4回転とぼうがかわりますまい。男子でバレエの動きをたたきこんでいる上に、そういった動きに対するリスペクトを感じるスケーターはもちろんいます。たとえばロビン・カズンズとか、ランビとかバトルとか。だけど上向きの感触というのはそれほどない。ジャンプのせいかもしれませんが。ごつくなって下向き圧力が大きすぎて逆らえなくなってジャンプに影響がですぎるロシア男子はもちろんのことです。
この最小限の接触で、氷面をコントロールしながら、上へ上へとむかう/ふわりと落ちる感触は羽生君の個性、となんでしょう。ほんと、この感触を他のスケーターで味わうことなんてあるのかなあ。RE_PRAYでは、たっぷりおがませていただきました。見ることができたときに味わっておかねば。現役時代はいつまでも見ることができるような錯覚をおぼえていましたが、今や、あと何年みることができるのだ、という思いに駆られます。仮にコーチになったとしても、教え子がこのスケートを継承できるかどうかは疑わしいです。そうする必要などない、といえばそれまでですけど。名コーチといっていいオーサーにしたって、オーサーと同じスケートをする生徒などいません。望むこと自体がまちがっているんでしょう。
RE_PRAY本編についてちょっとだけ感想を。
マークでの類推は大外れでもなかったなとにやついております
pray(祈り)の要素は前半でも後半でもありましたが、自分、という内面に対して前半と後半でまったくちがうアプローチをしたわけですよね。マークの矢印が左右から逆方向に内に向かっていったのはそういうことかな。
playの要素はやはりゲームをプレイする、という形ではっきりとでていたと思うんです。
そしてpreyの要素も...ありましたよね。フォントがなだらかな線だけにせずに、あえてギザギザのとがった要素、歯形や牙を連想させるような線にしたのは、推定したとおり、preyという言葉が頭にあったのかもしれません。前半はpreyをつくることをあえて選び、すべてをけちらして犠牲を築いても平気のラスボスと化す。後半はpreyをつくることを拒絶してすべてを受け入れる、という形ででてたかと。もともと、playという言葉がゲームの連想で浮かび、そこから韻をふむ言葉であるpray,preyと連想ゲームを進めて作った作品なのかなあ。
衣装の色も、prayにつながるとみられる白はともかくとして、前半は原色、後半は淡い色彩で区別をつけていました。前半、後半は真逆という印象を視覚的にもつくったことになるのでしょう。
ゲームとアニメの影響はかなりありました。あの文字がざーっと並ぶ文字背景はエヴァンゲリオンから定着していますが、アイスショーでみせられると新鮮でした。あのおかげで、エヴァと、特にテレビ版の最終回とだぶらせてRE_PRAYをみてしまったような。
ゲームはそれこそあちこちで。特に前半はめだったでしょうか。
それから全編にあったのは「祈り」の要素、ですね。前半は希薄になるところがあります。世界の主導権をにぎって魔王化するというストーリーには祈りなんてなさそうな気さえします。だけど、椎名林檎曲で般若心経なんてながれますもん。あれ、びっくりしました。こんなことよくやったものです。斬新すぎます。この般若もおそらく二つの意味をだぶらせてるのじゃないかしら。般若心経の般若は知恵の意味です。だけどここでは「知恵」の意味だけではありますまい。能面の般若の面、鬼女のイメージをだぶらせているはずです。
とりあえずこんなところで。次回の放送でもっと書いてみたいです。見るたびにちがうこと考えそう。
みなさんはどんな感想を抱かれましたか?
