自分の都合通りに、報い(=結果)がコントロールできれば、仏教など必要ありません。なぜ仏教が生まれたのか。それは、生きるうえでの重大な問題(たとえば老病死など)は“思い通りにならない”からです。
むしろ“思い”(=自分の都合)の方を調える。そうすることで、苦悩を引き受けて生きることができるのです。その意味では、自分の都合を調える方向の努力(精進)は必ず報われるわけです。
釈 徹宗 笑い飯・哲夫「みんな、忙しすぎませんかね?しんどい時は仏教で考える。」
人間、謙虚でありたいなあ、と思うような、科学では説明できないような奇跡が起こることは本当にあります。でも、それだけを追い求めるのはチープなことだと思います。偏ってはいけない。自分の力と神仏のご加護のコラボレーションで結果がかなうのですからね。
草野 妙敬 「地域寺院」 第48号
釈徹宗さんは浄土真宗の僧侶で、著名な仏教学者でもあります。哲夫さんは仏教に造詣が深い事で知られるお笑い芸人、草野妙敬さんは日蓮宗の尼僧で、法華経を元に作った「ロータスカード」が話題になっています。
お寺や神社にお参りの際、どんなお願い事をしますか?受験の合格、商売繁盛、当病平癒など、人によってそれぞれだと思いますし、お願いをする事で自分の目標がさらに明確になるという事もありそうです。
神仏へのお願いが悪い事だとはもちろん思いませんし、祈願によって奇跡的な現象が起こった、という話は古今東西たくさんあります。
私の知人にも、読経と水行を続けたら治らないと言われていた病気が治った、という人がいます。奇跡を願うのも信仰の一つの形であり、否定されるものではありません。
しかし奇跡はめったに起こらないから奇跡なのであり、奇跡が起こらなければやめてしまう信仰は意味がないとも思うのです。釈尊も、幸せになるための信仰を勧めていましたが「奇跡が起こるから信仰しなさい」とおっしゃった事はありません。
どれだけ熱心に信仰しても不老不死になる事はなく、誰もが「老・病・死」に直面する時がやってきます。
釈尊はこの「老・病・死」の苦しみを解決する為に出家し修行に励み、そして悟りを得ました。しかし悟りを得ても老病死から逃れたわけではありません。老病死を「苦」にしなくなったのです。
釈先生のおっしゃる通り、人生は思い通りにはなりません。これが仏教の基本的な認識であり、思い通りにならないから「人生は苦」であると釈尊は捉えました。
「苦」から逃れるために、「今」をありのままに見つめる事を仏教では勧めています。病気の時は「もっと悪くなったらどうしよう」「このまま治らないのではないか」と思うとさらに辛くなります。
今の自分の心や体にきちんと意識を向ける、そして食事を取ることができるならその食事の味に、鳥の声が聞こえるならその声に、花が見られるならその美しさに意識を向ければ、妄想の入り込む隙間が小さくなり、結果として苦しみも減らしていけます。
強い信仰のある人であれば「仏様にお任せします。治らなければ仏様の世界に行きます」という心境に至り、不安を減らしていく事もできるでしょう。これも間違いなく信仰の功徳と言えます。
そして人生において思い通りにならない事は実に多いですから、ついイライラする事もありますね。
仏教の根本的な考えに「縁起」があります。端的に言うと「原因があって結果がある」という事で、どうして今の状況に至ったか冷静に分析すると、今までと違う物の見方を発見できるかもしれません。
色々な視点を持つことができれば、それはストレスを減らす事に繋がっていくでしょう。
お参りの折は、今の自分を見つめ直し、思いを新たにする良い機会だと思います。
仏様もご先祖さまも、皆様の幸せをいつだって願っています。この事も忘れないようにしたいものです。
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