悲母我子を恋しく思し召し給いなば、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて、故南條殿・故五郎殿と一所に生れんと願わせ給え。
                                   日蓮聖人「上野殿母尼御前御返事」


 駿河国上野(現在の静岡県富士宮市)にお住まいだった南條兵衛七郎の妻は、まだ二十歳にもなっていなかった我が子の五郎を亡くしました。五郎は亡くなる三ヶ月前に身延の日蓮聖人を訪ねたばかりでした。
 

 聡明で武芸も達者、しかも優しい性格だった五郎の突然の死に際し、「人が亡くなる事は誰でも知っているのだから、その時はじめて嘆いたり驚いたりするものではないと承知していますが、しかしご子息のご逝去に直面すると、夢ではないか、幻ではないかと気が動転し分別を失っています。私でさえそうなのですから、お母様のお嘆きがどれほど深いことかとお察しいたします」と日蓮聖人はお手紙にお書きになりました。
 

 そして49日にあたり、日蓮聖人は五郎のお母様に改めてお手紙を出しました。

「法華経を聞いた人は1人として成仏しない者はいない、とお経文にありますから、南無妙法蓮華経とお唱えになっていた五郎殿は仏になっておられます。

 母として我が子を恋しく思われるのであれば、南無妙法蓮華経とお唱えになり、亡くなられたご主人と五郎殿と同じ場所へ生まれ変わるように願って下さい。

 同じ妙法蓮華経の種子を心の田に植えれば、同じ妙法蓮華経の芽が生まれ花が咲いて、同じ国へ生まれる事ができます。親子3人でまた顔を並べて見合う時、その喜びはどれほど深いものでありましょうか」とお書きになっています。

 

 日蓮聖人は翌年大きく体調を崩されましたが、それでもまたお母様にお手紙をお書きになり、「私自身、病気のため長くはこの世にいないでしょう。きっと近いうちに五郎殿とお会いすると思います。必ずお母様の事をお知らせいたします」とお伝えになりました。
 

 私達の世界と亡き方との世界は繋がっているのです。もし故人が生前お題目を唱えていなくても、皆様が代わりにお唱えになり功徳を差し上げる事ができます(これを「回向(えこう)」と言います)。

 いつの日か笑顔で再会できるよう、日頃から少しずつでも功徳を積めるよう心がけたいものです。

 さて、仏教では「善因善果・悪因悪果」を説きます。善い行為には善い報いが、悪い行為には悪い報いがあるという意味です。

 しかし五郎のように、立派な人が若くして亡くなってしまう事は今も昔も沢山あります。この原因を、仏教に造詣が深い京都大学のカール・ベッカー教授は「社会的因縁」と呼びました。どんな時代であっても、個人では抗いがたい状況があります。自然災害や病気もそれにあたります。
 

 それでは、どれだけ功徳を積んだとしても無駄になってしまう場合がある、という事でしょうか?

 決してそうではありません。釈尊は「積んだ功徳は死後にも持って行くことができ、新しい場所での拠りどころになる」とお説きになりました。

 積んだ功徳は消えることなく、やがて必ず自分を支えてくれます。その事を忘れないようにしたいものです。

 

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