わが父「りゅうけん」
私が中学生の頃、その怖さから、男子同級生たちにつけられたあだ名である。
終戦の2年前、りゅうけんは日本で生まれた。双子だった。
産まれてすぐ、双子の片割れは死んでしまい、少し小児麻痺のあった父は、一歳で済州島のおばあちゃんの元に預けられた。
日本での商いにあくせくしていた父の父、つまり私のおじいちゃんとおばあちゃんは、悪化の一途を辿る戦渦、疎開を兼ねて、済州島に預けたのだ。
父を預かったおばあちゃんは、少し曲がった一歳の孫息子の足を、毎日毎日さすってあげた。自分の手をこすって暖め、やさしくやさしく。語りかけながら。そのおかげか、幼少時代にはすっかり麻痺はなくなっていたそうだ。
10歳まで済州島で育った父は、当時の記憶をほとんど話さない。
おばあちゃんが優しかったこと、そして、おじいちゃんにこっぴどく叱られ、あまりに悔しくて、近くの渋柿をとってきて、おじいちゃんに渡した記憶。父が語るのはそのぐらいである。
当時の済州島は、4.3事件での民衆大虐殺や朝鮮戦争の勃発で、それは強烈な状況だったはずなのに、何も覚えていないと言う。
疎開後、実の父親、私にとってのおじいちゃんは、何年かに一度、済州島を訪れる。特に親子らしい会話をかわすことなく「このメガネの人が僕のお父さんなのかな?」ずっとそう思っていたらしい。
10歳になった父は、ある日、どこに行くかも知らされず、同じ年頃の2人の少年たちと船に乗せられ、声を出さず見つかるなとだけ言われ、暗い船底に身を潜めて日本に渡った。密航だ。
捕まったら殺されるかもしれない危険があることもよくわからないまま、少年3人は無事、青森の港にたどり着いた。おかげで父は今も閉暗所恐怖症だが、音を立てないように食べたリンゴがとても美味しかったと言う。
そして、たどり着いた港に、そのメガネの人がいた。ああ、やっぱりこの人が僕のお父さんか。
10歳の少年は日本に渡り、日本の小学校に転入した。
これがさっぱりわからない。当然だ。日本語なんてちんぷんかんぷん。授業についていける訳がない。楽しくない。友達なんてできない。毎日喧嘩ばかりして過ごした。
おじいちゃんは、ヘップ(靴)業を自営していたので、周囲にはいつもたくさんの大人がいるが、皆忙しそうで、この少年は自分の母親はどこにいるのだろうと聞くに聞けず、邪魔にならないように息をひそめて過ごしていた。
1年ほど過ぎた頃、勇気を出してよく一緒に食事をするおばさんに訪ねた。「僕のお母さんはどこですか?」
「アイゴ!今、この目の前にいるのがおまえのおかちゃんやないの!」
「そうか、この人がお母さんだったのか。」
少年は、それから、ようやくご飯をおかわりできるようになった。
しかし、面白くない。済州島での生活と違い、親も周りの大人もいつも忙しい。学校の勉強は全くわからない。友達のみならず、父親とも喧嘩ばかりしていた父は、朝鮮系の中学校に進む。そこでも相変わらずのやんちゃっぷりで、地元では進める高校もなく、電車で通う、私立の箕面高校に入学した。
そしてそこでいい先生に出会う。父に寄り添ってくれた先生のおかげで、勉強も学校も楽しくなり、瞬く間に成績は上がり、当時、東大を受験したらどうかとまで言われたそうだ。
とは言え、戦後まもない在日社会。家業を手伝わないわけにもいかず、父は、関西大学に入学することに決めた。
1960年代後半、この頃、地上の楽園と言われた北朝鮮への帰還者が後を絶たなかった。北と南に別れた朝鮮半島。そしてどちらかの国籍を選ばなければならなくなった在日。
戦争中は日本人として、戦後は外国人扱い、そして次は国籍を選べ。
いやはや、なんちゅうことかいな。日本にいても貧乏、南(韓国)はもっと貧乏。それに引き換え、全てを平等に分け与えると言う北(北朝鮮)。
終戦後の大韓民国は貧困で、自国を復活させる事に必死で在日の事まで頭が回らない。
日本も同じく、貧困から立ち上がるべく戦後復興に向けて国中が血眼になっていて、できれば在日には出て行ってほしい。
そこにまた同じく、国力を強化する為に人力を増やそうと考える北朝鮮。
三者の条件が揃ったのだ。
北は「白飯食えるぞ!仕事はあるぞ!早く来い!」
日本は「行け行け!今なら援助してやる!応援するぞ!」
南は「すまんが、今君たちのことまで考えられない」
・・・そりゃ心揺れるでしょ。この帰還事業で10万人が北に向かった。
さて、りゅうけん18歳。
血気盛んでアイデンティティに悩む青春まっただ中。
意気揚々と入学した大学の青年同盟同志たちの「これで良いのか!我ら今立ち上がれ!」に賛同し、先頭に立って活動を始めた。
もともとのやんちゃっぷりと統率力でみるみる人は集まり、昼夜、共産主義について、我らが信念を語りあい、祖国に向けて、人権に向けて力を注いだが、深く関われば関わるほど、同時に心の隅に浮かび上がって来るシラミのようなむず痒さ、自らの信ずるものへの疑心の念を取り払う事ができなくなり、ある日、スパッと全てを捨てた。大学もやめた。そして家業のヘップ工場を継いだ。
韓国の家庭では、家系を継ぐ長男は大切宝物のような存在だ。その責任も重大だが、もちろん優待も受ける。
ところが、生まれてすぐ離れて暮らしたせいか、また遠慮と強気のおかげで可愛げがなかったのか、りゅうけんの場合、特殊だった。
両親から重責は負わされるが、そこには包み込むような愛がない。
まだ幼かった孫の私から見ても不思議なぐらい、愛を感じない親子だった。そんな父に、おじいちゃんとの関係で父子を感じた経験はないのかと尋ねると、たった一つ。
高校3年生の夏、大学へ進学せず、祖国の為の運動家になりたいと伝えた時。おじいちゃんが初めて父を銭湯に誘い、背中を流してやると言われたそうだ。おじいちゃんは、父の背中に向かって、「色々悩んでいるだろうが、これからの時代、高卒だと生き伸びれない。大学に進んでくれ」と頼んだそうだ。
一緒にお風呂に入ったのは後にも先にもこの時だけ。
父は、その時初めて、我が父に、父親を感じたと言う。
私は父の涙を見たことがない。
いつもがむしゃらで生きている父は、自分の思い出をほとんど語らない。
というよりも、感傷を拒み、非情かと思うくらい終わったことは忘れ、
とにかく前に進むことしか見ていない。
飼っていた犬や小鳥が死んだ時も、私たちに浸る時間も与えず、とっとと火葬してしまう。
おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなった時ですら、泣かなかった。
もちろん私の結婚式も。
男たるもの、いつも強くあれ。涙を見せるな。家族を守れ。
2019年12月27日。
りゅうけん生誕76年。
今は弟家族、孫たちと共に暮らすりゅうけん。
手抜きして電話ですませる親不孝な娘の「誕生日おめでとう」に、
「ありがとう。今、嫁と孫たちとメロンのロウソクを消したところや。
アボジ(父親の意)もおじいちゃんと同じ年なったで。」
「おじいちゃん?」
「せや。アボジのおじいちゃん。おまえのひいおじいちゃん。ひいおじいちゃんが死んだ年や」
「なんで今、ひいおじいちゃん?」
「子供の頃な、済州島で、おじいちゃんと、明け方、まだ月が出てるうちに舟に乗って海に出るんや。おじいちゃん、漁師やったからな」
「へえ。そんな話初めて聞いた」
「そうか?そうやったか?それが楽しみでな。朝起こされてもないのに起きるんや。」
「おじいちゃんのこと好きやってんね。」
「めちゃくちゃ怖かったけどな。せやなぁ、好きやったなぁ。」
「全然、知らんかった。」
「せやったか?あの舟のことはしょっちゅう夢に出てくるで。
ヘミングウェイの老人と海や。格好ええやろ?」
笑っている父の声が詰まる。
私も涙が止まらなくなった。
小さな少年は、舟の上で、怖くて大好きなおじいちゃんとどんな話をしていたんだろう…。
いや、きっと76歳になるまで、何度も夢の中でおじいちゃんと話していたんだろう。
私たち家族を守るため、弱音をはかず、勘違いされても、へっちゃらを装うために、きっと何度も舟のおじいちゃんに支えてもらっていたんだろう。
初めて父の心臓に触れた気がした。