(阿弥陀如来曼荼羅図)
引導とは、亡くなられた故人の魂を阿弥陀如来様がいらっしゃる
極楽浄土、光輝く曼荼羅世界にお導きすること。
どうやってやるの?
お師僧様から授かった『引導作法』により
行います。内容は師資相伝で継承される。
今、行な割れている『引導作法』は、
室町から江戸初期にまとめられた作法である。
それ以前の作法に関しては
混沌とした状況であり残された文書はない。
では、弘法大師空海は、
どのように引導を渡していたのだろうか?
これがわかれば、
引導の深意が理解できるはずである!
『遍照発揮性霊集』(空海が日常において作った漢詩文を、弟子の真済が集成したもので113篇ある。)に空海が作った弔辞が11篇ある。
この11篇の中に「引導」の極意が
述べられているはずである!
弔辞の書き方は、以下のパターンで構成されている。
初めに、儒教、顕教の教え、真言密教の醍醐味を説き、
次に、故人のプロフィールが真摯に語られ、残された者の悲しみの状況が切々と述べられる。
最後に、法要による仏への礼拝、供養で故人の成仏を願う。
実は、何回もこの弔辞を読み返すと、空海の供養の原理が見い出せる。
第1STEP
因果応報、諸行無常、生あれば死があるのは道理と、淡々と現象世界を述べる。
第2STEP
縁ある人との別れの悲しみを怒涛のような文章で慟哭する。
第3STEP
最後に真言密教の法要でどん底の状態から光の曼荼羅世界に導く。
肝要なのは、各STEPのエネルギーの格差、段差、起伏。
特に、第2STEPの故人との別れの悲しみ、苦しさのあり方。
以下、現代語訳で第2STEPのあり方を見てみる。目の前にしっかりと映像化して読んでくださいね。
「しかるに、窓より手をとって別れるような死病に取り憑かれたのは、誠に天命であった。平癒することのない病により、掌上の玉を砕く哀しみで、眼の前が真っ暗になる。天なる神はどうして、非常にも、私の愛してやまない子を奪ったのであろうか。」
「思いもかけず、天寿はたちまち至り、つがいの鳥の一羽を残すように、夫を残してこの世を去った。つがいの鰈(かれい)が一匹を残すように、夫を残してあの世へ沈んでいった。母乳は尽きて、よき人は倒れ、悲しみの雲はいたましく、松風も悲しみに泣く。」
「思いもかけず、夫は生き残り、千里遥か黄泉路(よみじ)に去った妻のために涙し、夫婦共に老いようとする願いも、突然消え去った。何人もの子は母を失ったヒナのように、巣の中で転げ回って、大声で泣き、まだ幼い子が母を求めて、帳(とばり)の中で這い回っている。
母のごときめぐみの雨をもたらす雲はたちまちに消えてしまっては蘭菊にも比すべき子供達がどうして成長できよう。
ああ、なんと哀れなことであろう。のこされた子宝たちを愛撫すれば、目には涙が溢れる。
掌中の珠たる子供を見れば、心は、限りなく痛む。ああ、なんと哀れで、なんと悲しいことであろうか。」
「思いがけなくも、秋の木の葉は散りやすく、夜の燈火はすぐ消えるように、あたらあの世の人となってしまわれた。
今はもう花のかんばせ(顔)をうつす術もなく、かつて愛用された鏡を見るにつけて、心は痛む。亡き母の面(おもて)かと思われる月も沈んで、窓辺で共に月をめでたことが悲しく思いおこされる。
みまかれる彼の人はすでにとこしえに悟りの世界に休み楽しんでおられようか、この世に残された者は、悲しみの底に苦しんでいる。
ああ、何と痛ましく、苦しいことであろうか。仏弟子たるわれら、悲しみに身心を損なわれ、転げ回って、落ち着いてはいられぬ状態である。
天を仰いでは泣き、地を叩いて心は砕け、はらわたもちぎれるばかりである。」
「ところが思いもかけず、天の授けた寿命はまことに短く、父はまことに慌ただしくこの世を去ってしまわれたのである。弟子ら子供は、心は憂いの猛火に焼かれ、肝は悲しみの槍に刺されるようで、その辛いことは限りなかった。」
「遂に去る年、七月十七日、その息女は蓮の上の露のこぼれ落ちるようにみまかり、霜の葉が枝野下に散り敷くようにはかなくなった。
絹張りの窓の光を受ける朝の鏡に、あの愛らしい顔を写していた人はすでになく、絹のとばりの夕べの燈は、照らす人もなく、ただむなしく心を悲しみの火に焦がすばかりである。
ああ、まことに哀れなことである。
千たび、生死の迷いの夢、幻のようにはかないものであることを考え、
万たび、生死は陽炎のように実体のないものであると思うものの、人間としての本能で、娘を失った悲しさに心はゆるぎ、愛するものを傷む哀れさは抑え難いものがある。
朝に夕に涙を流し、日中も夜も痛みを覚えるが、今は亡き魂には何の益もない。」
そして、慟哭(どうこく)の極みは、誰もが空海の後を継ぐであろうと思っていた甥の智泉大師の死で述べられた次の文章である!
「厳しく修行するときも、むつまじく一つ家に住むときも、また王宮に仕えるときも、山中に修行するときも、光と影のように、常に離れることがなかった。常に師たるわが身を股肱として助け、従っていた。
わたくしの飢える時は、汝智泉も飢え、私の楽しむ時は、汝智泉も共に楽しんでいた。ただ、百年にもわたって、仏陀の残された教えを伝え、密教の教えによって眠りに落ちた迷える人々を、目覚めさせたいとのみねがっていた。
今、汝の死をむかえ、孔子が弟子顔回のため車を売って棺を求めたのと同じように、弟子に先立たれる激しい悲しさを、わが心に味わおうとは思いもかけなかった。
ああ哀しきことよ。哀しきことよ。この上の哀しさがまたとあろうか。
ああ悲しきことよ。悲しきことよ。悲しみのどん底とはこのことであろうか。
悟りをひらけば、夢に見た虎に脅かされたり、幻のような象に迷わされることもなく、この世の悲しみ、驚きは、すべて迷いの作りだすうたたかのような幻とは、知ってはいるけれども、
しかし今この儚き世で出会った愛する弟子との死別には、迷いの世のかりそめの事とは知りながら、涙を流さずにはいられなかったのである。
悟りへ至る大海のような修行の旅、未だ半ばにしかならぬのに、今わたくしと対になっているともいうべき汝という舵を失って、悟りへ向かう、果てしない大空を渡るような旅路で、つがいの鳥とも言うべき汝を、早くも失ってしまったのである。
ああ、哀しいことよ。哀しいことよ。哀しいといっても帰らぬこととは知りながら哀しい。
ああ、悲しいことよ。悲しいことよ。悲しいといって帰らぬ事とは知りながら悲しい。」
現在、このような言葉を発っする人はいるだろうか?
びっくり、知恵と感情はこうも違うことがはっきりとわかる。
この悲しみのどん底から、
故人一族の力、
如来、菩薩の加持力、
導師の功徳力により
故人の魂を、迷いの世界から、
一氣に真言密教の秘法により光の曼荼羅世界に導く!!
これが導くということ!