「今、出来る事。そしてやらなくてはいけないこと。」
幸わせなことに本年2015年は、高野山で修学の日々を送っている。3月末に30年勤めた会社をやめ、意を決しお大師様の懐に飛び込んだ。つまり、今後は僧侶として生きて行くということである。
4月1日~5月20日はお師僧さまのお寺で御礼奉公、その後下宿に移り大学の聴講授業を受ける。書道、悉曇、声明、法式、一流伝授、理趣経法、引導作法など来年以降に必要だと思われる科目を受講している。夏前には修士論文の題目も決め、夏には念願であった四国遍路(阿波、土佐を野宿もしながらの歩き遍路)を行い、現在は大学院(通信)のレポート作成(単位取得)にとりかかっている状況である。
今、特に感じるのは、とにかく時間の流れが早いことだ。レポート準備で頭を悩ますだけで、またたく間に1週間が過ぎ去ってしまう。
ここで大切なことは、毎日やる事を決めて継続することにある。時の流れが早ければ早いほど、日々の積み重ねが確実に成長につながる。
今、毎日積み重ねている事は、
ひとつめは、写経(2014/9/1~毎日)がある。写経に記載する「願い事」に秘密がある。具体的な内容を開始日に記載し、成し遂げた時点で結願とする。「願い事」を「般若心経」と共に「書く」ことにより、今一番やらなくてはならない事を日々確認出来るし、お写経の功徳により、困難時にこうしたら良いという発想、行動が生まれる。
ふたつめは、5年くらいは続いている日記。日々行ったこと。何時に起床、朝食、就寝、etc.を記載しその日の気づきを書く。3行日記(1行づつ、その日の良かったこと。悪かったこと。明日やること。)を意識しながら書くようにしている。1年前、2年前の同日に何を考え、何を行っていたのかも確認出来るし、予定部分を見ればいつまでに何をやらなくてはいけないのかもわかる。
3つめは、奥之院の御廟お参り。(2015/5/23~)本年中に108回(いろいろなお経に最低で108回は実行しないと何の意味もないとある)を目標に実施している。四国遍路(2015/8/7~8/11、8/25~9/10)までは、脚腰の鍛練もかね、毎日御廟けいゆ摩尼峠と約14kmを歩いた。それ以後は2日に1回の時もあり、12/6時点で102回となっている。
4つめは、瞑想。11月2日に月輪観の実習があり、その日から高野山にいる時は毎日瞑想を行っている。12月3日には阿字観の実習を終えたので現在は阿字観を実行中である。そして、今から行わなくてはならないことが、次の文章にある。
「真言密教は、一言でいわば神秘体験の宗教であるといえる。心眼を開いて遍く観照する時、生きとし生ける、有りとし有らゆる、すべてのものを包み生かしている大宇宙は、それ自身絶対にして無限、しかも永遠に生き通せる大実在であることが体解出来る。しかしそれは肉眼や五官の感覚や知覚では到底捉え得ないから神秘といい、しかもそれは厳然と在って、すべてを生み出す本源として体験出来るから実在という。この大実在を心に深く知るを覚りといい、そこから魂の悦びも心の安らぎも生れるし、またその境界に住して自他のために祈れば、真実の利益効験となって現成する。この大実在の内容を心ゆくばかり説き示したのが真言密教の教理であり、それを心にこなし身につけて自在に自らや他の幸福をもたらすための行法がその秘法ともなる。その教理は、人間の宇宙観人生観の至極を窮めており、生きがいある人生を生きぬくための要諦を尽している。随ってそれを知ると共にその内容を味わい、それを生活の中に生かせば、無限の喜びと幸福がわいて尽きないのである。」注(1)この文書で一番肝要なのは、「それを(教理を)心にこなし身につけて自在に自らや他の幸福をもたらすための行法がその秘法ともなる」である。
空海は真言行者が必ず学ぶものとして、『大日経』『金剛頂経』の2経『蘇悉地経』の1律、『釈摩訶衍論』『菩提心論』の2論をあげ、実践には『五秘密儀軌』をあげている。しかし、上記2経1律2論を初心者が先生の指導なく独学で身につけるのは困難であり、危険性もはらんでいる。現況では大学・大学院でのカリキュラムに従い身につけるしかない。
次に、私の修士論文題目である「浄厳和尚についての一考察」の「浄厳和尚」が真言教理と実践の基本に関し『真言修行大要鈔』注(2)に著しているので内容を確認し、検証する。原文は書き下し文だが、自分の理解も深めるため現代語訳で表記する。
『真言修行大要鈔』
質問1、真言宗の修行は機根に随うために種類が多岐に亘ると聞く。私は愚鈍のため多岐には耐えられないので、要点のみを教えて下さい。
回答1、阿字観が一番良い。阿字観には3つの側面がある。聲と字と実相の3様である。
①「聲」は口に阿字を唱えて、息を吐く時にその聲に心を入れて唱える。心をこめて唱えれば妄想が自然と止まり、智慧が生じて自分の本源が明らかとなり、諸法の真実が良くわかるようになる。
②「字」は、最初に自分の心中に円明の月輪を観じ、其の中に八葉の白蓮花を観じ、その上に金色の阿字があると観念する。念を継続して集中すれば、妄念が漸次退き、無明がなくなる。すると自然に本覚の心仏が顕われる。
③「実相」とは、阿字の真実の意味であり、『大日経』には「一切諸法本不生」とある。わかりやすく言えばあらゆる天地の万物(仏菩薩、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、諸天)は、悉く皆本来本有にして始めもなく、終わりもない。生ずるに似ているが、今始めて生じたのでもなければ、昔に生じたものでもない。滅するに似ているが、今始めて滅したのでもなければ、後に必ず滅するものでもない。常住にして動転することなく遷変しない。これが、本不生の実義である。ただし、この義は、甚深幽玄にしてかりそめに知ることが出来るわけではない。法相(弥勒の法門)、三論(文殊の法門)、天台(観音の法門)、華厳(普賢の法門)の大乗四宗も自ら解知することは出来ない。ただ、大日如来より嫡嫡相承して今日まで伝わる真言宗にのみ理解出来る。
質問2、文殊も弥勒も自ら知る事が出来ない甚深の玄理ならば、今時愚痴の凡夫がどのようにしてそのような境界に入ることが出来るのですか。
回答2、文殊も弥勒も自ら知る事はできないが、仏の言葉に因っては領解(受け取り悟る)するように、今時下劣の凡夫だが、大日如来よりろくかた師資(本)相伝するを以て随分(ぶんにしたがって)知る事が出来るが、しかしその妙所に至っては水を飲む者の冷煖(ひややか、あたたか)を自ら知るようには教え示すことは出来ない。先ず大綱を教わった後に自ら工夫して其の妙に至ること。極処を得る時は即ち大日如来と同等である。凡そ心(こころ)ある者は此の法に信を傾けること。
質問3、禅宗は諸宗に超えて教外別伝とて師家の示しに任するにはあらず、唯自己に返照し工夫して悟道するを本意とする。(中略)今、真言の実義は師の教えを待って理解すると言えば、禅門の心地と比べれば頗る劣るのではないか。
回答3、『大日経疏』に曰く、「然も此の自證の三菩提は一切の心地を出過して諸法の本初不生を現覚す。此の處は言語尽竟し、心行また寂なり。若し如来威神の力を離んぬれば、即ち十地の菩薩なりと難も尚其の境界に非ず。況や余の生死の中の人をや。」『守護国界教』には釈迦如来成仏の時も十方の諸仏に此の心地を教えられて悟り玉ふと言えり。(中略)自ら工夫して得るは猶其の理の浅き故なり。他に教えられ入ることは却って其の理の深き故なりと知るべし。
以下、要約で記載する。
質問4、禅密の浅深の解釈。及び本不生の更なる詳細に関して知りたい
回答4、禅密の浅深は本不生の詳細を知れば自ずと理解できる。本不生の詳細が「自他平等の理」、「三密の力」、「本有の法」により様々に検証され、「かくの如く万法に歴て各各に万法を具したりと知る。是を本不生の知見と言うなり。」と結論づけられる。
質問5、本不生が万法を具すのなら、善悪も不二邪正も一如となる。然らば悪は作りやすく、善は作りがたい。本不生の理は却って悪を造る基と成るのではないのか。
回答5、若し善悪不二なる理を能く通達するのに、何故、善を捨て悪を取るのか。悪は差別を性とする。善は平等を性とする。平等の理を捨て、差別を事とすれば、本有なる法は縁あるときには必ず起るので、今若し三毒を起して悪業を造れば自心本有の三途が忽然に生じて、而も自から其の中に入って諸々の苦を受ける。真言法を少しでも知る人は本不生の意味を間違ってはいけない。
ここからは、本不生に関し対弁するのは終わりとして、本不生の実義を広説する。
事例として、方木、渋柿、良医を用い、密教は始めより具たる處を示すが故に本不生と説き、顕教は縁に寄って顕われる處を愚人の心に随って示すので無生と説く。
更に本不生の理を決定して信知する時は、自身に本来仏智を具すと知り、また諸々の作業は皆仏の所作なるが故に成仏すること甚速なり。故に真言の修行は一向初心より作すところ印・真言・観心の三密はさながら悉く仏の所作である事を疑うことなかれ。信ある時は能く仏法に入る。と説く。この後、
質問6、本不生にあらざるは皆邪見なのですか。
質問7、真言宗の本不生も若し是のみ真実なりと執せば不邪見なのですか。
質問8、若し此の本不生の義を観ずるにはどのように修行するべきですか。
質問9、天台の一念三千の法門も真言の本不生と同じものですか。
と続き、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「即身成仏」「六大」「五相成身観」が回答として説かれて行く。
『七支念誦随行法口訣』では、行法の口訣が説かれている。順次学ぶと共に、行法を開始したい。
注(1)『教理と行証 真言密教の基本』三井英光著 法蔵館 昭和54年6月21日発行
注(2)『新安流四度口訣集』上巻 総本山霊雲寺、河内延命寺 平成8年4月1日発行