弘法大師伝 設題2「伝教大師最澄との交流に関して」 | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

伝教大師最澄との交流が、ご生涯においてどのような意義を持つのかについて論じなさい。

 

 最澄、空海とも入唐前に『大日経』に接している。

 最澄は、十三歳で近江の大国師であった行表に師事し、十五歳で得度し最澄と改める。師の行表は唐僧の道璿(七三六年インド出身の僧菩提僊那、ベトナム出身の僧仏哲と共に来朝し大安寺を拠点とする。)を師僧とする。道璿は華厳を本宗とし、天台の教えにも精通し、禅法も伝えている。この血脈に連なる最澄は、華厳一乗の学習から開始する。

 道璿よりほぼ十年遅れて来朝した鑑真(律宗、天台の学僧)により天台の典籍がまとまってわが国にもたらされ、同伴して来朝した法進が数度にわたって近江の国昌寺などで天台の講義を行うなど天台の教えが流布したこともあり、最澄は、天台の教えに導かれて行く。また、「天台の教えを釈迦一代の教えを総括」するものとして、殊のほか強い関心を寄せたのが、桓武天皇とその側近であった。

 最澄は、天台法門の正嫡の師伝を受け、あわせて天台典籍を余さず将来することを目的に入唐すべく桓武天皇に上表し、還学僧となる。

 しかし、最澄には、密教への関心が早くからあったことも事実である。真言密教の根本経典である『大日経』七巻、『金剛頂瑜伽中略出念誦経』四巻、『蘇悉地伽羅経』三巻、『蘇磨呼童子経』三巻、『大毘盧遮那経義記』十巻などは、道璿と同じ時期に帰国した玄昉らによって齊持され、書写されていることが正倉院文書から知られる。最澄は『大毘盧遮那経義記』を写し取ろうとしたが、損傷していて写し取る事が出来ず、七七二年に入唐した西大寺の徳清が将来した『大毘盧遮那経義記』七巻を改めて借用して書写し、校訂したと、円珍の『大毘盧遮那経義釈目録縁起』に書き残されている。その時期はおそらく入唐以前のことである。(注1)

 空海に於いては、『性霊集』巻七「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造る願文」のなかに「弟子空海、性熏我を勧めて、源に還るを思と為す。経路未だ知らず。岐に臨んで、幾たびか泣す。精誠感有つて此の秘門を得たり。文に臨むも心昏し。願って赤縣を尋ぬ。人の願ひ天順ふ。大唐に入ることを得たり。たまたま導師に遇つて、此の両部大曼荼羅を図き得たり。兼て諸尊・真言・印契等を学ぶ。」(注2)とあるように、「精誠感有つて此の秘門を得たり。文に臨むも心昏し。願って赤縣を尋ぬ。」此の秘門が何かは、入唐がかない「たまたま導師に遇つて、此の両部大曼荼羅を図き得たり。兼て諸尊・真言・印契等を学ぶ。」とあるように密教の根本経典である、『大日経』を意味する。

 また、『二十五箇条御遺告』に「唯し願はくは三世十方の諸仏、我に不二を示したまへと。一心に祈感するに、夢に人ありて告げて曰く、此に経あり、名字は『大毘盧遮那経』といふ、是れ乃が要むるところなりと。即ち随喜して件の経王を尋ねたり。大日本国高市郡久米の道場の東塔の下に在り。此に於て一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞ありて憚問する所なし。更に発心を作して去んじ延暦二十三年五月十二日を以て入唐す。初めて学習せんが為なり。」(注3)と『大毘盧遮那経』を学んだことが明記されている。

 以上より、最澄、空海とも入唐前に『大毘盧遮那経』に接していることがわかる。同じ経典に出会い、同時に入唐するにもかかわらず、学んできた内容、視点の違い、天皇をはじめ取巻く環境により両者は今後、接点を維持しつつも進む道が異なる。

 最澄は、入唐の成果として、天台山修善寺の座主であり、天台宗第七祖と称された道遂や行満から天台の法門を受学し、菩薩戒も受け、留学目的を達成する。また、密教に関しても最澄の強い願いによって、越州の鏡湖の東嶽にある峰山道場において、泰嶽の霊嶽山寺の順暁阿闍梨より以下の付法を授かる。「毘盧遮那如来、三十七尊曼荼羅所、阿鑁藍吽欠 上品悉地、阿尾羅吽欠 中品悉地、阿羅波者那 下品悉地、灌頂伝授三部三昧耶阿闍梨、沙門順暁。図様契印の法。大唐貞元二十一年四月十八日、泰嶽の霊嶽寺の鎮国道場の大徳、内供奉沙門順暁、越府の峰山頂の道場において三部三昧耶を付して、弟子最澄に牒す。」また、最澄撰述の『越州録』には『五仏頂転輪王経』五巻、『大輪金剛陀羅尼経』一巻、『無量寿如来瑜伽儀軌』一巻、『十八会瑜伽法』一巻、『普賢金剛瑜伽法』など多くの密教経軌や五鈷金剛鈴や杵などの灌頂の法具を入手したことが記載されている。(注4)

 空海は、八〇四年八月に唐の福州長渓県赤岸鎮に到着、同年十二月に長安に入城する。八〇五年五月頃に恵果和尚を青龍寺に尋ね、八月上旬には真言両部の大法を継承し遍照金剛の灌頂名を授かる。同年十二月十五日に恵果和尚は入滅する。八〇六年八月に二年間の滞唐を終え、空海は明州の港を後にする。入唐の成果として、恵果和尚より両部の大法を授かるのは第一義であるが、『御請来目録』にあるよう日本にはまだ請来されていない聖教、儀軌、注釈書、曼荼羅等最新の資料を収集した。空海は資料を六種に分類している。

 1新訳および旧訳の聖教一四二部二四七巻 2梵字で書かれた真言・讃・儀軌など四二部、四四巻 3論書・疏・その他の注釈類三二部、一七〇巻 4曼荼羅・諸尊図、伝法阿闍梨の影像などの図像一〇鋪 5法具九種一八品目 6師恵果阿闍梨から付囑された品一三点。

 空海と最澄の入唐による成果の違いは、第一に語学力の差があげられる。

 空海は、『大日経開題(法界浄心)』に於いて「『大毘盧遮那成仏神変加持経因陀羅王』とは、これすなはち梵漢和雑の翻なり。もしことごとく漢語に翻ぜば、大日除暗遍明成正覚者神変加持経帝釈王といふべし。もし具なる梵本に拠らば、マカベイロシャナウビサンボウヂビキリニタヂシュタソタランインダラアランジャと名づく。」(注5)と述べる。

 最初に漢語の「大」、「毘盧遮那」、「成」、「仏」、「神変」、「加持」「経」、「王」に関し以下の真言密教のキーワード(四種曼荼羅、四種法身、三密業用、五字厳身観、本不生、真言、加持、入我我入、即身成仏等)を使用し真言密教の中枢を説く。

 次に、梵語による解釈が行われる。各梵字について字相、字義が説かれる。字義について見ると、「マ」内心の大我、我一切本初等、「カ」一切法因縁不可得、「ロ」一切法塵垢不可得、「シャ」一切法無遷変、「ナ」一切法名不可得、「ビ」有不可得、「サン」諦不可得、「ボ」言語、「ヂ」一切法界、「ニ」妙観察智定、「ダト」法界不可得、を明示した後に、「かくの如きの諸事門はみな初めの阿字をもって本体となす。いはゆる阿字はすなわち大日の種子真言なり。この経はこの一字をもって体となす。この経の始終はただこの字義を説くのみ。この字に無量無辺の義を具す。」と『大日経』を定義する。入唐前には決して理解できなかった内容である。

 これに対し最澄は、入唐にあたり通訳の沙弥義真を伴っている。また、空海帰朝後、空海より『悉曇字記』一巻、『梵字悉曇章』一巻、『悉曇釈』一巻を借用書写している。つまり、漢語(中国語)会話は得意とせず、梵語に関しても学ぶ意識が空海と比べると低かったのであろう。この外国語に堪能でないという最澄の弱点が空海との決別を引き起こす一要因となる。

 八〇五年六月に最澄は帰朝し、桓武天皇に「円教は説き難し、その義を演ぶるものは天台なり。妙法は伝え難し、その道を暢ぶるものは聖帝なり。」と上表し、賛同を得る。ただし、桓武天皇は最澄が順暁より受法した密教に大きく関心を示す。和気広世に勅して、「真言の秘教等は未だ此の土に伝うることを得ず。然るに最澄闍梨は幸に此の道を得たり。良に国師たり。宜しく諸寺の智行兼備の者を抜きて、灌頂三昧耶を受けしむべし」と命じられ、高雄山寺で八月に三部三昧耶の灌頂を開壇する。九月上旬には再び、勅命を受けて、明州草堂寺の比丘大素から伝授された五仏頂法を修する。翌年、最澄は伝持してきた法華宗を新しく旧来の六宗に加えるよう上表し、僧綱も賛同し天台法華宗が公認される。桓武天皇の強い配慮のもと年分度者のうち「一人は大毘盧遮那経を読ましめ、一人は摩訶止観を読ましむ。」という勅もくだった。桓武天皇はこの年の三月に崩御される。(注6)

 空海が、恵果和尚の遺言を受け二十年の留学期間を三年で切り上げ八〇六年八月に明州を出港し筑紫太宰府に帰り着く。桓武天皇から平城天皇に変わった影響か空海に入京の許可が出ない。十月に『御請来目録』を上表する。

 最澄は入唐前の七九七年に内供奉十禅師に補せられ、帰朝後の翌年には天台法華宗の初祖となる。現在でいえば超エリート官僚である。それが一介の留学僧が両部の密教大法を恵果和尚より相伝され帰朝するとは、夢にもおもわなかったに違いない。『御請来目録』を確認すると、自分が伝授された密教は傍道にすぎないと、即座に理解されたのであろう。自宗の遮那業の位置づけをどのようにするのかを相当悩んだに違いない。最澄は「法華一乗と真言一乗とは何ら差なく、ともに融通する。」という信念に行き着く。

 空海も天台法華宗に遮那業なるものが存在するとは夢にもおもわなかったに違いない。入京後の八一二年十月乙訓寺で最澄との初会合の際、「生年四十、期命尽くべし」と述べ、「持する所の真言の法を最澄闍梨に付属すべし」と弱気な面も見せたこともあったが、最澄が自宗の遮那業の確立を図るために、聖教、儀軌等を整えることに躍起となり、空海が密教付法で最も大切にしている面授による師資相伝を重用視しなかったため、二人は、相容れない状況となる。

 決別後、最澄は法華一乗を主に「山家学生式」による独自のカリキュラムで天台宗を確立しようとする。

 空海は、『勧縁疏』、『辯顕密二教論』を撰述し、密教興隆を図る。

 結局、空海と最澄の違いは入唐前の『大日経』への接し方の差がでたのだと考える。

 

(注1)『空海と最澄の手紙』高木訷元著 1999年5月 法蔵館発行

(注2)『弘法大師空海全集』第六巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注3)『弘法大師空海全集』第八巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注4)『空海と最澄の手紙』高木訷元著 1999年5月 法蔵館発行

(注5)『弘法大師空海全集』第三巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注6)『空海と最澄の手紙』高木訷元著 1999年5月 法蔵館発行