高野山の開創について、一次資料(原典『定本弘法大師全集』等)、二次資料(論文等)を引用したうえで、自らの考えを簡潔に述べよ。
帰唐後の空海の活動拠点を「弘法大師略年譜」(注1)で確認し、高野山開創の位置づけと、開創に至るまでの段取りをみる。
筑前観世音寺(34才)↓和泉槇尾山寺(34才)↓①高尾山寺(36才)↓長岡乙訓寺(38才)↓②高尾山寺(39才)三綱を定める↓③修禅の道場建立のために高野山の下賜を請う(43才)↓④勅許後、始めて高野山に登り、禅院を経営す(45才)↓勅により、中務省に入住す(46才)↓伝燈大法師位に叙せられ、内供奉十禅師に任ぜらる(47才)↓讃岐国萬濃池の修築別当に補せらる(48才)↓東大寺に灌頂道場(真言院)を建立す(49才)↓⑤東寺を給預せられ、密教道場となす。(50才)↓⑥高尾山寺を定額寺とし、神護国祚真言寺と改称す(51才)↓⑦東寺講堂の建立に着手す(52才)↓⑧東寺五重塔建立にあたり、上奏して塔材運搬を勧進す(53才)↓大僧都に任ぜらる(54才)↓(東寺の東)に綜芸種智院を創立す(55才)↓大安寺別当に補せらる(56才)↓⑨高野山にて萬燈・萬華二会を修す(59才)↓後七日御修法の勅許下る(61才)↓⑩真言宗年分度者三人を賜う。⑪金剛峯寺、定額寺となる。⑫高野山にて入定す(62才)
恵果阿闍梨より、「早く郷國に帰って、以て國家に奉し、天下に流布して、蒼生の福を増せ。」(注2)とのお言葉を授かり、空海も「空海、大唐より還る時、数、漂蕩に遭ひて、聊く一の少願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利済せむが為に一の禅院を建立し、法に依って修行せむ。」(注3)と誓願をたてる。この誓願の結果を年譜にある拠点(場所)で見ると、高尾山寺(①②)・神護国祚真言寺(⑥)、高野山(③④⑨⑪⑫)、東寺(⑤⑦⑧)の三拠点が主であることがわかる。
高雄山寺は和気氏の私寺として建立されたが、②時点で空海は『高雄の山寺に三綱を擇任する書』(注4)を発令し真言密教の意義を前面に出す。⑥の時点で定額寺となり官寺に準する。
東寺は⑤にあるよう嵯峨天皇より託された官寺である。ただし、官寺でありながら⑧の五重塔建立にあたって空海は『奉造東寺塔材木曳運勧進表』(注5)を上奏し、諸司に協力を依頼している。寺院建立に関わる資金、人材(人夫)の確保に苦労している姿がみえる。
高野山は、③にあるよう空海が一から造設する真言密教の拠点となる。空海は『於紀伊国伊都郡高野峯被請乞入定處表』(注6)(816年6月19日上表)で「今禅経の説に准ふるに深山の平地。尤も修禅に宜し。」と、密教修禅にとり高野山の立地が最適であると説き、「上は国家の奉為、下は諸の修行の者の為に荒薮を芟り夷げて、聊かに修禅の一院を建立せむと。」と唐から帰国時の誓願を成すべく行動に出る。
嵯峨天皇からの勅許は同年7月8日に頂戴する。ここで空海は更に筋を通す。『高野雑筆集』に収められる布施海(主殿寮の次官)宛への手紙を通じて、紀伊国司への根回しを行うと共に、更には『高野雑筆集』にある(宛名、日付なし)手紙で「我が遠祖太遣馬宿祢は是れ則ち彼の国祖大名草彦の派也。所似に尋ね謁えんと欲すること久し。然れども左右物碍て、志願を遂げず。悚息何をか言はん。今法に依って修禅一院を建立せんと思欲。」と地元の丹生津比売命を祭祀していた丹生祝家、もしくは、本家筋にあたる紀伊国造家に高野の空地を賜る勅許を得たこと、併びに高野山開創の協力をお願いしている。(注7)
空海は、高野山開創にあたり、教義のみでなく経済基盤の確立も確実に行っている(⑩⑪)。現代社会で言えば超一流の起業家であり経営者である。また、⑫時点で全てやることはやった。ということが感じられる。
一次資料
(注1)『定本弘法大師全集』首巻 高野山大学 密教文化研究所
(注2)『定本弘法大師全集』第一巻『御請来目録』
(注3)『定本弘法大師全集』第七巻『高野雑筆集』巻上
(注4)『定本弘法大師全集』第八巻『性霊集』巻九
(注5)『定本弘法大師全集』第八巻『性霊集』巻九
(注6)『定本弘法大師全集』第八巻『性霊集』巻九
二次資料
(注7)武内孝善『空海素描』第六章 高野山の開創ー史実と伝承のかかわりー 2015年高野山大学通信教育室発行