江戸期に活躍した真言宗の僧侶を一人あげて、その人の伝記・思想等について論じなさい
浄厳(一六三九―一七〇二)は十歳にして、高野山に登り、顕密の学をおさめ、中院および西院流の相承を受け、諸流を統合してみずから新安祥寺流を開創して密教の修法の革新を企てた。快円より受戒した浄厳は如法真言律を唱導し、河内延命寺を創設して、その根本道場とした。元禄四(一六九一)年、綱吉の外護をえて江戸湯島に霊雲寺を建立し、関東真言律宗の総元締めとした。かれは為政者の帰依を受けても、世俗的な権勢をのぞまず、ひたすら戒律の復興と民衆の教化に尽力した。菩薩戒を受けたもの一千余人をかぞえ、三帰戒を受けたものは六十万人をこえたといわれる。三昧耶戒のなかに顕密すべての戒を統合しようとしたところに、密教者としてのかれの戒律観の特色がみとめられる。著作は『悉曇三密鈔』八巻をはじめとして百部以上におよぶ。また、かれが印刻した『秘密儀軌』八帙は、わが国における大部にわたる儀軌公刊のはじまりである。そののち儀軌の出版事業は、かれの弟子慧光の『胎蔵法儀軌』四部、法住によって長谷寺で開版されたいわゆる『享保儀軌』十三冊、快道の『享和儀軌』十二冊に継承されて、密教思想とその実践法の普及に貢献した。(1)
浄厳和尚の特色をあげると一、諸流を統合してみずから新安祥寺流を開創して密教の修法の革新を企てた。二、如法真言律を唱導し、将軍綱吉の外護を得た。三、民衆の教化に尽力した。(三帰戒を受けたものは六〇万人をこえた)四、密教思想とその実践法の普及に貢献した(『秘密儀軌』八帙の出版、伝授)となる。
この四つの特色に関し、浄厳和尚の年譜に基づき、特色ごとに実践した足跡を辿り浄厳和尚が何をなそうとしたのかを考察する。また、年譜表記は、西暦ではなく浄厳和尚の年齢表記で行う(何歳の時に何を考え実践したのかが考察となるため)
各特色の具体的項目は、一、新安祥寺流四度次第成立に関連する事柄等。二、寺院建立、綱吉との謁見等。 三、僧俗への結縁・受明・伝法灌頂等。 四は儀軌、戒律、悉曇となるが、専門多岐及び多数の資料と成るため今回は取り上げない。(各特色にまたぐ内容もあるので、等とする)書籍表示『』は省略する。
一、新安祥寺流四度次第成立に関連する事柄等
一七歳(高野山南院良意に従い四度加行を成満す) 一八歳(中院四度口訣、三部四処輪百光遍照図を書写す。実相院長快に従い中院流両部灌頂を受く) 一九歳(安流不動護摩頸次第を書写す) 二十歳(良意に従い安流の許可を受く) 二三歳(良意に従い安流の伝法阿闍梨位を受く) 二四歳(安流金胎護摩伝授記を写す) 二七歳(巻数鈔を写す) 二九歳(宝性院道場に於て、初めて実誓、意伝の二人に三宝院流の印可を授く。朝遍法印より安流許可、伝法阿闍梨位を重受す) 三四歳(胎界初行私記を撰す。安流破壇作法を書写す) 三五歳(十八道初行作法、不動初行私記、金剛界初行私記を撰す) 三六歳(安流聖如意輪観自在菩薩念誦次第を書写す。仁和寺尊寿院顕證に従い西院流四度加行結願。真乗院孝源に従い許可加行を始め、許可を受く) 四一歳(安流金剛界念誦私記を写す。通用字輪観口訣を撰す) 四二歳(受法最要を撰す) 四五歳(別行次第秘記を撰す、安流作壇略作法を写校す) 四八歳(初行作法を撰す) 四九歳(胎蔵界念誦次第を撰す) 五一歳(随行一尊供養念誦要記を撰す) 五二歳(真言修行大要鈔を撰す) 五三歳(大日経随行一尊供養念誦儀、息災護摩私記、行法軌則を撰す) 五六歳(随行一尊供養念誦要記私鈔巻一を起草す) 五八歳(金剛界供養念誦要法、真言行者初心修行作法を撰す。随行一尊供養念誦要記私鈔巻一を撰し了る) 五九歳(七支念誦随行法を撰す) 六十歳(護身法口訣を撰す) 六一歳(七支念誦随行法口訣を撰す。随行一尊供養念誦要記私鈔巻二を草し了る) 六二歳(随行一尊供養念誦要記私鈔巻一の再治、随行一尊供養念誦要記私鈔巻三を草し了る)
二、寺院建立、綱吉との謁見等
三六歳(丹南村来迎寺の阿弥陀尊像を図画す) 三七歳(泉州大鳥群上神谷村に高山寺を創建し、本尊十一面観音木像を制作す。仁和寺孝源の命により洛西鳴滝般若寺に住持す) 三九歳(鬼住村に帰り、父の俗宅を改めて延命寺を創む) 四一歳(高松城主松平頼重より庵地を給わり石清尾の社側に現證庵を立つ。河内高安郡教興寺を尊学忍空より譲り受けて再興の志を起こす) 四三歳(延命寺にて灌頂用の両界曼荼羅を画く) 四四歳(河内高安教興寺住職に補され香衣を許可され西大寺衆分に加えらる) 四六歳(教興寺に五間四面の祖師堂を建立して弘法大師と聖徳大師の二尊像を安置し、伝法・受明・結縁の灌頂壇を開いて大師八百五十遠忌の行事に当つ) 四七歳(牛込多門院裏息障庵に安居す) 五十歳(金胎両部種子曼荼羅を揮毫して、河州錦部郡松林庵主慧忍に与う。教興寺大殿、経蔵を建立す。教興寺に巨鐘を鋳造す) 五二歳(請わるるままに柳沢保明の霊厳島の別業に移り瑞雲庵に住す) 五三歳(3月22日将軍綱吉に柳沢保明の邸で謁見、御前に於いて普門品を講ず。8月22日保明の推挙によって幕府より三千五百坪の地と金三百両を下賜され、宝林山霊雲寺を建立す。10月半ばに完成、永代幕府の祈願所となす。12月11日綱吉より初めて祈祷料銀十枚布施せらる) 五五歳(幕府より寺領百石賜る。霊雲寺に地蔵堂を建つ) 五六歳(正月三日乗輿して城中に入ることを許さる。6月29日霊雲寺、関八州真言律の本寺を命ぜらる、7月28日に命ぜられしを謝し。9月3日柳沢邸に於て法隆寺寺宝開帳す、綱吉並に桂昌院拝観して寄進す、浄厳は宝物の縁起を説く) 五七歳(5月11日綱吉自画の大元帥像を霊雲寺に与え、正五九月国禮の本尊となさしむ。12月12日登城して綱吉の易の講説を聴く、伽羅一木・時服二・銀弐拾枚給う。12月24日登城して綱吉に謁し色羽二重十五疋を給う) 五八歳(6月22日河内延命寺境内並に山林田畑を領主本多忠恒より寄付さる。7月10日登城して易講を聞き晒布十疋賜る。8月18日河内延命寺本堂上棟。12月14日登城して人参を給う。12月21日登城して時服二・銀十枚給う) 五九歳(登城して易講を聴く、地黄丸二壷給う。6月27日登城して易講を聴く、晒布十疋給う。8月30日河内教興寺を蓮体に付す。9月26日登城して易講を聴く、人参膏、参木膏を給う。12月18日登城して日光門跡辞見の席に列座す、時服二・銀二十枚給う) 六十歳(正月6日恒例の正月参賀のために登城す。12月6日幕府より没後の墳墓の地として谷中に千三百坪を給わる) 六一歳(3月30日霊雲寺を蓮体に付し河内延命寺に退隠せん旨を告ぐ。4月18日登城して易講を聴く、紅白羽二重五疋賜う。5月14日登城して易講を聴く、人参三十斤給う。7月22日登城して易講を聴く、晒布十疋給う。是歳、米倉丹後守昌明、相州に徳石山道明寺を創建して霊雲寺末となし鐘銘を浄厳に求む) 六二歳(2月11日登城して易講を聴く、羽二重十疋を給う。3月7日河内延命寺食堂衆寮改築成り、本堂落成す。3月25日登城して易講を聴く、八味地黄丸を給う。6月20日登城して易講を聴く、晒布十疋給う。11月18日登城して御前にて梵網経を構ず、銀20枚・羽二重十疋給う) 六三歳(7月4日召されて登城す、晒布五疋。10月9日綱吉柳沢邸に賀す、よって浄厳も召出さる、地黄一壷給う。11月29日城中にて齊飯を給い齊後に般若心経を構ず、御手づから御茶を下され、叉奇南香二木、羽二重十疋を賜う。12月29日登城して来年の護符を献上す) 六四歳(4月5日夜、柳沢保明邸全焼す。6月1日焼失の毘沙門天象の代わりに浄厳所持の双身像を柳沢保明に献上す。5月29日自筆の安流聖教を悉く河内延命寺に移し保存せしめんとして先ず金胎両部大法の自筆を送る。6月14日暑湿に当り発病。6月21日病状を綱吉に達す、よって大医令薬師寺宗仙ら数人の奥医を遣わさる。6月27日卯下刻遷化す)
三、僧俗への結縁・受明・伝法灌頂等(以下結縁↓結、受明↓受、伝法↓伝と略す)
三八歳(河内常楽寺にて初めて結・受を授く) 三九歳(小西宮常楽寺、播州飾東群国分寺にて結・受・伝を行ず) 四十歳(延命寺にて受・伝を修す) 四二歳(河内延命寺にて結・受・伝を行ず。普通真言蔵の序を刊行す) 四三歳(河内延命寺にて受・伝を修す) 四五歳(高松聴徳庵にて結・受・伝を行ず。塩飽島正覚院にて結を行ず) 四六歳(教興寺にて結・受・伝の灌頂壇を開いて大師八五〇遠忌の行事に当つ) 五十歳(尾道西国寺にて結・伝を修す) 五三歳(弁惑指南四巻を撰して刊行し、和文を以て顕密の浅深を論じ、民衆に真言密教の本旨を鼓吹す) 五四歳(霊雲寺にて結・受・許・伝を行ず) 五五歳(霊雲寺にて結・受・許・伝を行ず) 五六歳(諸真言諸尊梵号等の墨跡を需める人々に対し、日課真言を誓約せしめて教化す) 五七歳(霊雲寺にて結・受・許・伝を開く) 五九歳(霊雲寺にて結を開く、約十万人、灌頂講を結成) 六一歳(上州高崎大染寺に赴いて結を行ず) 六二歳(結を行ず)(2)
浄厳和尚の一番の転機は、五三歳にある。一では、行法軌則を撰し、新安流の確立がなり、二では、綱吉より宝林山霊雲寺を下賜され永代幕府の祈願所となり、三では弁惑指南四巻を撰して刊行し、和文を以て、民衆に真言密教の本旨を鼓吹す。浄厳和尚の経歴を見ると平安、江戸と環境は違うがお大師様とほぼ同様なパターンで求道、大成されている。ただ、大きく異なるのは、お大師様が万全を期し死に臨まれたのに対し、和尚は将軍の寵愛及びまだやることがあったにも関わらず不意の死が訪れた事である。
(1)テキスト『密教の歴史』二百七十頁
(2)『浄厳和尚伝記史料集』上田霊城 名著出版 昭和54年