密教史概説 設題2「奈良時代の密教」 | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

奈良時代の密教について論じなさい

 

 奈良時代仏教は鎮護国家の祈願に奉仕したことや、唐の仏教を摂取し、唐に比肩しようと熱意を燃やしたことなどに特質をもち、官営写経、国分寺と東大寺大仏の造営などを柱とした。(1)

 奈良時代には法性(相)・三論・華厳・律・俱舎・成実のいわゆる南都六宗において栄えた。(中略)南都の僧綱たちは学僧であるとともに、鎮国安民の国家的な修法の司祭者でもあった。しかし南都各宗と一般民衆との結びつきを示す文献は乏しい。当時の大寺院は大氏族の建立にかかるものが多く、僧侶も氏族出身者がそのほとんど大部分を占め、仏教教団が一種の封鎖社会を形成していたためであろう。(中略)

 奈良時代の民間の仏教には二つの大きな流れがある。すなわち、市井にあって民衆の教化と福祉に専念した、いわば社会救済的な仏教と、また山林にこもり呪術をもって民衆の要求にこたえた山林修行者の呪術を主体とする仏教とである。一般に前者は行基をもって、後者は役行者をもって代表とされる。(中略)

 奈良時代にはすでに百三十部に及ぶ密教経軌が渡来し、書写されていたことは『正倉院文書』によってあきらかである。これは現存の密教経軌の四分の一弱に相当する。(中略)書写された教典の度数からみて、『陀羅尼集経』『仏頂経』『観世音経』『十一面経』『大灌頂経』『随願往生経』『虚空蔵菩薩陀羅尼経』『千手千眼経』などのダラニ教典が圧倒的に多い。(中略)

 『陀羅尼集経』をはじめとして、諸尊の造像形式を規定する諸種の密教経軌の存在が予想される。またダラニ教典が多数伝来していたことからみて、これらの密教像の前でダラニを唱え、ある種の密教儀礼・修法が行なわれていたことがわかる。奈良時代の末期には、インドの初期密教経軌にもとづいた修法が、かなりさかんであったらしい。『大雲輪請雨経』にのっとった祈雨法が、天平神護二年(七六六)年に実施せられ、役小角が孔雀王法を修したという説話、あるいは空海が室戸岬で求聞持法を修したという記述が残されているからである。(2)

 以上が奈良時代の仏教の概要であるが、更に具体的に見てみる。

 奈良時代(710平城京遷都~784長岡京遷都まで)の為政者をあげてみる。元明女帝(和同開珎の鋳造、平城京への遷都、『古事記』『風土記』の撰進)、元正女帝(養老律令の編纂、三世一身法の制定)聖武帝(国分二寺、東大寺盧遮那仏の造顕の発願)、孝謙女帝、淳仁帝、称徳(孝謙重祚)女帝、光仁帝、桓武帝(平安京への遷都、蝦夷の征討)の八代の天皇となる。めまぐるしい変化である。

 政治を見ると、天武天皇の皇子たちと橘・多治比ら旧王族、および大伴・佐伯・紀らの旧士族を結集した勢力と、これに対する藤原氏一族との間における政権争奪に、皇位継承問題が微妙に絡まった闘争の繰り返しである。また、701年に施行された、大宝律令の修正・整備の次期でもある。

 文化的には、天平文化とも呼ばれ、平城京の大宮人中心の貴族的文化、遣唐使らによって請来された盛唐文化の影響を強く受けた国際性豊かな文化、鎮護国家の教法として国家の保護を受け、国分寺・東大寺などを建立した仏教中心の文化である。(3)

 盛唐文化の影響とあるが、奈良時代のシナの状況を見てみる。唐代も則天武后、中宗の時代には、王室の関心が仏教とか道教とかを問わず、ただ呪術による現世利益に集中する。仏教教団は上層階級の内部紛争を利用して、自己の勢力を拡大し、公主・外威と僧侶が結託して教団内部に腐敗の原因をつくりだし、714年の玄宗による仏教粛正策につながる。ただし、玄宗の仏教禁令は仏教の破壊を目的とするものではなく、仏教教団と政治勢力の結合を打破し、王室の権力の強化を意図するものであったため、国王擁護に加担し、呪術的な能力においてもより有効と考えられた密教に対しては保護政策をとったとされる。(4)

 参考までに、密教年表(対象は日本)に記載されている人名及び経歴を見ると、701年役小角(修験道の始祖)、717年玄肪(717年入唐、735年帰朝、諸仏像と経論五千余巻を請来する)、泰澄(白山を中心とした山岳修行者)、718年道慈(701年入唐、718年帰朝、三論の奥旨を極める。大安寺建立。善無畏より求聞持法等の密法を受法し伝ふ)、745年行基(入唐僧道昭の弟子、社会事業に貢献し745年大僧正となる)、746年良弁(義淵の弟子、華厳・法相を学ぶ、東大寺の開山)753年鑑真(753年唐より来朝、東大寺戒壇院、唐招提寺建立)、765年道鏡(義淵・良弁の弟子、密教経典と梵文に通じ、称徳天皇時に法王の官に任じられる)774年空海誕生となる。(3)(5)

 ここで、奈良時代の密教が次世代に何をもたらしたのかを空海の視点から捉えて見る。

奈良平城京から長岡京を経て平安遷都794年に、空海は21才であり、在籍していた大学寮の儒教教育に飽き足らず、本格的に仏教を学ぶための道を模索していた。これ以後十年間は、『聾瞽指帰』以外の史籍はない。また、空海(33才)が唐から帰国した806年(大同年間)頃の状況は、東大寺の実忠が健在で、おそらく二月堂修二会の充実に力を注いでいたはずであり、薬師寺の景戒の『日本霊異記』も完成されようとしていた。また、三論の勤操・玄叡や、法相の護命・修円が活躍して、南都六宗の教学が頂点を極める時代である。

 密教に関しては、772年(宝亀三年)の日付をもつ『正倉院文書』の講読経奉請解継文を見ると、

「謹解 申奉請経事 卅三巻 合 奉請経七部 大毘盧遮那成仏神変加持経 一部 七巻

[宮一切経内] 金剛頂瑜伽中略出念誦法経 一部 十巻 [宮一切経内] 大吉義神呪経 一部 四巻 七仏所説神呪経 一部 四巻 「已上 三部 四年十月十八日返上了」右件経 為奉講所請如前 仍注状以 謹解 宝亀三年九月十五日 講僧 仙憬 奉請 同月十六日使 傀命」

 とあり、『大日経』は善無畏による訳経から十二年、『金剛頂経』も金剛智の訳出から十三年で日本に伝わり、奈良時代にすでに書写され、学習され、講読されていたことが推測される。さらに南都諸寺で重視されていた『金光明経』『大般若経』『法華経』には菩薩が陀羅尼を読誦することで無上菩提を得る事が繰り返し説かれており、また、『千手千眼神呪経』『仏頂経』『十一面神呪心経』など奈良期に多数書写された密教経典には陀羅尼・印・観想法を用いた諸尊の瑜伽法が説かれているので、『大日経』と『金剛頂経』のいわゆる純密的成仏論が南都の学僧にとってまったく理解不能だったとは言い切れない状況が推測される。

 空海の活動が本格化する弘仁~天長年間にも、建設途上の東寺と西寺を除いて平安京には主だった寺院は存在せず、仏教の中心は相変わらず平城京の諸大寺であり、仏教をめぐる環境は引き続き奈良の制度や文化の延長上にあった。

 空海は、816年(弘仁七年)高尾山寺において、勤操等に三昧耶戒、並びに両部灌頂を授く(性霊集10)、822年(弘仁十三年)東大寺に灌頂道場(真言院)を建立し、鎮護国家のために夏中、および三長斎月に息災、増益法を修す(三代格二、続後紀五)、824年(天長一年)少僧都に直任せらる(僧補一、長者補任一、続後紀五)、827年(天長四年)大僧都に任ぜられる(長者補任一、僧補一)とあるように、最澄が弘仁十三年大乗戒壇設立をめぐり僧綱と激しく対立したまま死去したとは対照的に、南都の指導層と協調関係を構築し、密教を日本に定着させる道を選択している。

 では、前述した奈良の密教は空海にどのような影響を与えたのであろうか。

空海は、『御請来目録』の冒頭で、聖教をはじめとする唐から請来したさまざまな品目を以下の六種に分類している。

 1新訳および旧訳の聖教一四二部二四七巻 2梵字で書かれた真言・讃・儀軌など四二部、四四巻 3論書・疏・その他の注釈類三二部、一七〇巻 4曼荼羅・諸尊図、伝法阿闍梨の影像などの図像一〇鋪 5法具九種一八品目 6師恵果阿闍梨から付囑された品一三点。

 更に、この内の聖教類を新訳経と旧訳経に分け、 

1新訳経 

  a不空三蔵により訳出されたもの一一八部、一五〇巻 

   ⅰ「貞元新定釈教目録」に記載されているもの一〇五部、一三五巻 

   ⅱ「貞元録」に未だ記載されていないもの一三部、一五巻

  b般若三蔵他による訳出経九部、七五巻

2旧訳経二四部、九七巻とする。

 高木神元氏の研究によると、空海の請来経は、日本ですでに書写された経との重複がわずか三点しかないことが明かにされている。

 空海はどのような知識と方法で請来経の重複を避けることができたのだろうか。空海は経典類を新訳経と旧訳経に二分する。これは、玄肪によると見られる大規模な聖教の請来や光明皇后の写経事業など、奈良期の一切経の収集と書写の基準となった730年に長安崇福寺僧智昇が編集した一切経目録『開元釈教録』二〇巻が基となる。『開元録』に記載されている経を旧訳経とし、『開元録』以降訳出された聖教を新訳経としていること。また、八〇〇年に長安西明寺僧円照が編集した『貞元新定釈教録』を使用し最新の密教経典を把握し既存の請来経との重複を避けたものと推測される。

 以上より空海は入唐前の期間に奈良密教を充分に習得したうえで入唐し、密教を伝えるものとしての「血脈」を恵果阿闍梨より授かり最新かつ正統な密教を請来したと推測できる。更に空海が目指したのは奈良の仏教(密教)のあり方を否定し超克するのではなく、唐で学んだ新しい要素を奈良の密教の土壌に注意深くなじませ、接木してゆくことだった。(6)

 奈良密教の土壌(写経事業等)なくして平安密教は成立しえなかったのではないだろうか。

 

(1)日本仏教史辞典 吉川弘文館 1999 編集 今泉淑夫

(2)テキスト 松永有慶著 密教の歴史

(3)日本史大辞典 平凡社 1993 編集者 下中弘

(4)テキスト 松永有慶著 密教の歴史

(5)密教大辞典 法蔵館

(6)奈良期の密教の再検討ー九世紀の展開をふまえてー阿部龍一(奈良仏教と在地社会

   岩田書院 2004 編者 根本誠二、サムエルc モース P105~P153)