現代人の心と密教について述べなさい。
問題提起1
「葬式仏教」この言葉を僧侶みずから使うことはまずない。僧侶を揶揄した、批判の言辞だからである。しかし、葬式仏教こそが、日本に初めて成立した「国民的宗教」であるとの指摘もある。決して羞じることはないはずであるのに、なぜそうなったのか。現在の仏教を考えるヒントがそこにある。」(注1)
私は現状を大胆に改めようとしないかぎり、日本仏教には遠からず「第二の廃仏毀釈」が訪れるだろうと警告している。それは、一般市民が葬儀、法事、墓参などの営みにおいて、ますます寺院離れの傾向を強くするという予測に基づいている。さらに核家族化、少子化などの社会現象が、そのような傾向に拍車をかけることになるだろう。
いまや寺院は、「守る」時代から「創る」時代へと移行しつつある。僧職にある者は、その想像力をフルに使って、新しいお寺の在り方を提起する必要に迫られている。現代人の精神的ニーズに柔軟に対応し得ない教団や宗派は、組織的に動脈硬化を起こしていることは明らかであり、今よりもさらにその存在感を薄めることになってしまうだろう。(町田宗鳳「宗教の現在」『春秋』465 2005年1月号より)
問題提起2
2006年「ホスピス・緩和ケアに関する意識調査~人生観や死生観との関連」というアンケートの調査結果が発表された。設問のひとつに「あなたが治療の見込みのない病気になり、死に直面したとしたら、あなたの心の支えになってくれると思うのは誰ですか」があり、回答(複数回答)は1配偶者69% 2子供62% 3友人33% 4医師24% 5同じ病気を持つ仲間22% 6親戚18% 7看護婦11% 8ソーシャルワーカー4% 9宗教者4.2% 10職場の仲間3% 11支えになる人はいない4%
さらに死別体験有りでの調査結果では宗教者は3.5%との結果である。
人にとって死は全人的なできごとであり、宗教的、哲学的問題としてとり組むべき課題があったとしても、死に直面する患者の多くは病院などの施設で闘病し死を迎えるケースが一般的である。そこには病者と宗教家の接点は存在せず、労苦、病苦、死苦の苦悩は隠蔽され、あたかもそれらが存在しないかのような環境が二十一世紀の社会には横たわる。
病者が魂の苦悩を訴え、宗教家に救済を求めてもその実態を知る手がかりはなく、病者の魂の叫びが痛みを伴って宗教者まで届くこともない。このように病苦や死苦の救済の現場を失った宗教家にとり、死に直面する患者の苦悩を救済する方策を研究、議論することは困難である。たとえ、宗教家が深遠な生命の哲理を体得しても、死を意識して懊悩する患者から遠いところにいるため、それを活かして苦悩を解放する機会はない。われわれ僧侶は病者の「病苦・死苦」の苦悩から遠いところにおかれている。そのような社会的背景が僧侶にとって病苦や死苦への救済の力を半減させているといえる。アンケートの結果はそのことを如実に物語る。
今日、緩和ケア病棟や一般病棟で、医師や看護婦など医療者がスピリチュアルペインに対応する姿が見受けられる。死期の近い患者の多くは身体的次元を超えた、精神や魂の領域の苦痛を表出するが、多くの医療者は患者の身体的次元に焦点を合わせ医療行為を行うため、末期患者から表出される深い苦悩の意味を受け止めることは至難の業に近い。そのため患者の多くは人生の終焉にさいして求める魂の救済が、放置されたまま死に逝く現状がある。心や魂の領域のケアの専門家が配置されている欧米のホスピス病棟などと異なり、わが国におけるスピリチュアルな課題への対策・対応はまだ不十分と言わざるを得ない。
生の終焉を目前にした人が、人生最後の力を振り絞って、「命の意味や目的」、「自己存在の意味」「自己存在の尊厳」等を探求するのを見守るスピリチュアルケアの専門家として、「生命の尊厳」を洞察する訓練を重ねた仏教者の活躍が期待される。(注2)
問題提起に関して自らの体験に即して考えてみる。1の問題は地元のお寺と地元民との関係であり、2は現代社会のシステム(科学第一主義、資本(拝金)主義)と僧職との関係である。
昨年2015年12月に父の十三回忌の法要を、近親者、親戚、友人の代表者を招待し行った。近親者の死という体験もふくめ、家族、親戚の状況を振り返ってみると、そこには現代日本の生き方の典型があると思われる。
例えば以下は私が実際に体験した近親者の死の事例である。
・膵臓癌で会社退職後2年で余命半年と宣告され死亡(元上場会社役員)
・連帯補償に伴う金銭問題で自殺(元歯科医師)
・脳外科手術後に植物人間10年で老衰(専業主婦)
・喉頭癌で死亡(元大学教授、医師)
・老衰
身近な死に関する事だけでも様々な形がある。現代では成功者の部類にはいる人間でも死に関してはごく自然の当たり前な老衰という形で亡くなるのは相当高いハードルであることがわかる。多分、皆においても身近な方の死に関し親族一同に見守られながら自宅で平安に死を迎えたという事例は少ないのではないだろうか。
現在私は54才(1961年生まれ)で、妻と子供2人という家族構成である。生まれは両親の出身地で生まれたが、父の仕事の関係で俗にいう古里での生活は経験がない。
両親(1930年代生まれ)世代は兄弟姉妹が多数いるのが珍しくない。4、5、6人は当たり前という家族が多数ある。当家も父方が6人、母方が5人である。焼け跡派時代と呼ばれ、戦後の高度成長期の波にのりバブル景気時代で丁度60才と資本主義の頂点を究めた世代である。生活圏は生まれた地元から会社の集中する大都市圏に移動し,右肩上がりの経済成長に支えられ、金利、物価も上昇するが所得も上昇する。マイホームに車、最新の電化製品を揃えることが中流家庭の証となる。家計は家のローン(30年ローン)、車のローン、子供の教育費(一流大学→一流会社→出世を皆が目指す)が必要となり、第一次ベビーブーム(1947~1949生まれ)の反動もあり少子化が普通(子供ひとり育てるのに1億円必要との噂も流れる)となり、自然と核家族化が進んだ。
地元のお寺とのお付き合いを住民が肌で感じられたのは、多分1930年代生まれが最終世代ではないだろうか。戦中、戦後の厳しい社会環境の中で地元のお寺は季節行事(盆祭り、お彼岸、法要)等を通じ、地元の情報拠点としての役割を果たしていたと両親から聞いた事がある。通常では、生活圏が地元から大都市圏に移動した時点でお寺との関係は葬式以外では関係が消滅したと考えられる。更に次世代の第一次ベビーブーム世代になると、祖父母(両親の父母)が亡くなった時点で両親の古里とのご縁は完全に消滅してしまう。大都市圏に移動した両親の実家が新たな拠点となり、よほどの事がない限り(宗教系学校への進学等)宗教に関わるのは歴史の教科書と初詣以外にはないという状況になる。私の場合も例外にもれず、初詣以外にはお寺に行くこともないし、ある時までは宗教の必要性も感じなかった。
自己(我)が目覚める時、人間は何故生きているのか?何で死ぬのか?親、兄弟がいなくなったらどうしよう。の疑問に誰しもが打ち当たるときがある。私の場合はその際、哲学にのめり込み、頭でっかちになりどのように行動すれば良いのか悩みに悩み、結論として哲学(頭脳)ではなく身体の動きも伴う宗教というものを見いだし18才の時に永平寺、比叡山、高野山どこに飛び込むかを直感で決め高野山の門を叩いた。
両親の宗派は浄土真宗であったが私が真言宗で得度したため申し訳ないが今後は真言宗に宗派を変えますよとお伺いをたてたところ、何のためらいもなく了解をえた。昔なら親戚との関係も含め宗派がえは大問題となるところだが資本主義、合理主義、科学第一主義、唯物主義のなかではたいした問題ではない、という事が理解できる。
高野山で小僧となり大学に通い四年間お大師さまの教えを学んだが、これは天才の世界であり、とてもではないが、凡人には遥か及びがたい世界である、との認識を持った。また、お大師様との貴重なご縁を結んだことにより、お大師さまの意志に反したことを行ったら酷い目にあうぞという教訓も得た。
私は、昨年4月に30年の会社生活に区切りをつけ再び僧侶に舵をきった。もし、今死を目前にし、死への恐怖、送ってきた人生に対し悩み苦しんでいる方がいたらどのように対処するだろうか。
人間が幸せを得るには、
四苦(生・老・病・死)、八苦(四苦、愛別離苦、怨憎会苦、求布得苦、五蘊盛苦)、輪廻(六道)転生からの解脱が必要である。その為には、
十二因縁(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)三宝印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)四諦(苦・集・滅・道)、無常、無我、五蘊、空(唯識、中観)を理解し、
三学(戒・定・慧)、特に戒においては十善戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不良舌・不悪口・不瞋恚・不慳貪・不邪見)四重禁戒(不応有捨正法戒・不捨離菩提戒・不応慳悋正法戒・不応不利衆生行戒)をまもり、
三宝(仏、法、僧)に帰依し、
八正道(正見・正知・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、十波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・方便・願・力・智)の実践により解脱を得ることが出来る。
ただし、上記実践にあたっての絶対条件として、慈悲心、菩提心を発し智慧を得て利他行を行うことが必要だ。と説くであろうか。
否。ただやさしく手を握り、吾が胸に手をあて月輪のまばゆい光の中に阿字を感じて安心してくださいと願うだけである。ここに至るには毎日の密教行法がかかせないのは言うまでもない。
(注1)谷川泰教『第三巻現代に密教を問う』「高野山大学の新たな教育」高野山大学選書刊行会 2006年発行
(注2)高松哲雄『第三巻現代に密教を問う』「宗教と医療」 高野山大学選書刊行会 2006年発行