大乗仏教の思想が密教にどう取り入れられているかについて述べなさい。
現在でも真言密教のあらゆる修行、儀礼の中心となる真言は、「発菩提心の真言」と「三昧耶戒の真言」である。あらゆる如来とそれを理想とする大乗菩薩の根本の誓願、その結果としての悟り、そしてその境地に至る修行の全課程をになう菩薩自らの心、その菩提と心、両者の関りの全体が「菩提心」と称される。決して変わる事なく仏教に普遍する核心である。いっぽう大日如来の顕れとその現前する具体と修行者との二人称の対話的関係における不二性の認識、誓約、それが「三昧耶」と称される。それは、大乗仏教が阿毘達磨の僧院の仏教を、現実社会との関連のもとに実践を広げた段階で孕んでいた凡聖不二という理念を、広く汎インド的に開放することになる概念である。これが真言密教のもっとも基本的な構造を形作る二大要因である。悟りと修行者の主体(自心)との関係性である菩提心が、大乗仏教としての密教を捉える場合の最も重要な視座であると。(1)
以下、「菩提心」というキーワードで大乗仏教の思想が密教にどう取り入れられているか述べてみる。以下、『密教・自心の探求』生井智紹著 第1章第1節「大乗仏教における密教の形成―大乗における真言門の確立―を引用し確認して行く。(2)
1 菩提心―智慧と慈悲の心―
菩提と心、これは大乗仏教の一番最初から決して変わることのない中心課題であり、これをめぐって大乗仏教のあらゆる理論が論じられてきた。また、中期密教の『大日経』『初会金剛頂経』も教理の中心には菩提心という核があり、更には表層を見る限りではヒンドゥー教のタントラの修法とほとんど区別がつかない後期密教においても両者を判別する基準は菩提心という観念があるかどうかによる。
2 菩薩
大乗仏教の最大の特色は菩薩の登場である。菩提への本源のいのりを自らの本質とする方々を菩薩という。寂天(650~700頃)の『入菩提行論』という著作には、「菩提(bodhi)への熱意をその人の本質(sattva)とするような、そのようなひとを菩薩という。」
とある。この本源のいのりのいのちを捨て、菩提への道を求めず灰身滅智の阿羅漢の涅槃に赴くものを「菩薩の死」と称し、阿羅漢を地獄に落ちるよりも救い難いと忌み嫌う大乗の意識がある。
次に密教では、戒律の根本は、その菩提心という本質を失わないこととされ、それが密教徒の行き方とされる。菩提への誓願、熱意という観点から菩薩の実践を捉えてみると、既存の方法に対し大きな変化が現れてくる。密教的実践法を標榜する、新しい意識を持った真言門の菩薩が出現してくる。
3 様々な如来と多様な菩薩
もともと「菩薩」という語は、修行者時代の釈迦牟尼世尊が最高のさとりに心を傾倒して修行を行ったすがたに対してだけ用いられていた。仏弟子達にとっては、灰身滅智の阿羅漢の位に達することが最上の願いであり、釈迦牟尼仏と同じ無上正当菩提の境地に至ることは思いもよらなかったからである。
「ジャータカ」(本生 釈尊の過去世の物語)が多数著されて整理されていく時代に、『マハーヴァスツ』という仏伝文学の代表的な書物が著される。そこには、前世における釈尊の誓願を自らの誓願として、釈尊と同じように無上正当菩提に発心する人達が現れてくるようになる。『マハーヴァスツ』にはこのような菩薩たちを特徴づける「誓願の心」が記されている。「自ら度脱して他を度脱せしめ、自ら解脱して他を解脱せしめ、自ら安穏となって他を安穏ならしめたい。それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世間を哀愍するために、多くの人々のために、神々と人々の利益と安楽のためである。」とありこれが、大乗の利他の誓願である。
いっぽう、釈迦牟尼世尊以外にも、無上正等菩提を得た方がいたという考えは、過去七仏という考え方に見られるように、かなり早い段階から、仏教徒の意識にあった。法蔵菩薩といわれる菩薩のときに四十八の願を立て、その菩薩行の成果として極楽という西方の浄土を得た阿弥陀仏、十二の願を立て、その成果として東方の浄瑠璃国という浄土を得た薬師如来などである。このように、誓願の結果として仏国土を荘厳して如来となる菩薩が多数いたことが明かになってくる。無上正等菩提に向けて実践に赴く、その心を発菩提心というが、そのような菩提心を発こした菩薩たちが、大乗菩薩として活躍していくのが、大乗の世界である。
4 菩薩行―普賢行願と十地の階梯―
大乗の修行という点では、釈尊の前世の物語を規範として、理想的な菩薩の修行階梯が「十地思想」というかたちで整えられてくる。『華厳経』の「十地品」において、ほぼ大乗菩薩の修行階梯が全容として体系化される。それが、『解深密教』などの思想を経て、菩薩の波羅蜜行と十地の思想とが統合され、十波羅蜜の完成が、仏の徳の完成として説かれる。理論的には、瑜伽行唯識派の修道体系において菩薩の修道体系は完成する。この波羅密行による修行の体系は、完成するまでに三無数劫の極めて困難な道のりがあるが、菩薩の誓願の烈しさと、自らの本源からの菩提自身の自己発現の力がそれを乗り越える力となる。
5 真言門と波羅蜜門
大乗菩薩の三無数刧の波羅蜜行に対し、菩薩の修行形態に新しい意識が現れてくる。普賢行願などとして説かれる菩薩の願いは同じであるが、その実践方法が異なる。『大日経』などでは、その菩薩を「真言門より菩薩の行を行ずる菩薩」と呼び、十地の修行階梯を経て六波羅蜜や十波羅蜜の完成を求める「波羅蜜門の菩薩」とは違う独自なものとする。この新しい修行法は、菩薩の修行課程という側面ではなく、むしろ菩提の心そのものと、菩薩の心の同質性という、新しい修行の原理(密教)が前提となる。
『般若経』では、自らの心の本源は本来清浄な輝くものであるが、それが様々な分別をもって覆われてしまい、その覆いを除くことが修行の肝要であるとされる。この原理が、菩提心のもうひとつの側面、虚空にひとしい菩提の心、菩提を本質とする心、菩提の相(すがた)を持つ心、という菩提心である。この側面の認識がないと、密教の行は成り立たない。なぜなら、密教の行は即身にほとけのいのちを顕わす行だからである。
具体的に「真言門より行を行ずる菩薩」とはどのような菩薩であろうか。『菩提心註解註』(スムリティジュニャーナキールティ著)に次のように定義づけられている。。「その[世俗と勝義との]二菩提心を誰が発こすのかというと、それが説かれているのが、「真言門より[行を行ずる菩薩]云々という[語]をもって[示されるの]である。そ[の語]のうち、「真言」とは<明><護呪>である。無分別智と悲とを本性とするものとして説きたまわれたそれを念誦するからである。その最初から、真言門より行を行じて、その最初に入る乗が、「門」である。三昧耶戒を護り、月輪と文字、種子などを観想することなど修習の現証する次第が「行」である。それを一向に修習するのが「行ずる」ことである。「真言の門より行を行ずるもの」であり、かつ、「菩薩」であるから、「真言門より行を行ずる菩薩」というのであり、父母(方便と般若)の瑜伽とすべきである。
これは、菩提心のありようを密教的手法で顕わし出し、その曼荼羅に参与しているさまを描くものである。大乗をどういう方法で具現化するか、その実現の方法論的課題に、新しい視点をもたらしたのがこの「真言門の行」別の語では「三密加持」であるということができる。
6 如来秘密―神変加持としての世界―
大乗菩薩の「波羅蜜行」による「如来秘密の境界への随入」という成仏への道が、「真言門」による「如来秘密への直参」へと変貌していくさまを見て行く。
『華厳経』「十地品」には、菩薩が初地から三無数劫の時間をかけ修行し、灌頂を受けて第十地(法雲地)に至り、「如来の秘密の境位」を知る。具体的には、身の秘密、口の秘密、心の秘密、時と非時とを弁別することの秘密、菩薩に授記を与えることの秘密、衆生を摂取する秘密等々の十種の秘密である。
この「如来秘密」の内、三密に関し、『密遮金剛経』では、「如来出現の因縁となる修行中の菩薩の生涯」も秘密として捉えられ、如来のみならず、因位の修行時代の如来(菩薩)の三業にも秘密性が敷衍され、「三密」があると説かれる。
また、『如来不可思議秘密経』には衆生済度にあたる「菩薩の秘密」が説かれる。菩薩の全行動は、一般化されれば真如、法身に通じ、衆生に向かっての秘密の働きとして捉えられる。「三者の平等性の認識」という原理が「三密」の各々について明確に表現される。また、灌頂地の三昧に入ることによって、あらゆる仏国土の神秘、神変を、自らの身体、言語、心を通じて「加持」し、神変として顕現することになる。
ただし、この菩薩の三密は、「如来秘密」そのものが衆生自体に本然的にそなわる、という観点からの「三密」を意味しているわけではない。そのような観点を得るには、さらに一段の論理的展開を必要とする。
7 密教への展開
文殊菩薩に端を発し、普賢菩薩に統合される大乗菩薩の誓願の心は、あらゆる大乗菩薩の普遍の願いでもあり、あらゆる菩薩の境界に偏在するものである。密教においては、空海の『秘密曼荼羅十住心論』の中で、第九地の極無自性心を、普賢菩薩の三摩地の境界とし、第十の秘密荘厳心の因位と位置づけ、密教の修行者の代表である金剛薩埵になぞらえて、両者を同置していくようになる。密教が確立されるにあたり、あらゆる仏教教理が、瑜伽の観法、菩薩の修行道、という点から、菩提心という観念を中心にまとめられていく。
(1)『密教学概論』生井智紹 高野山大学通信教育室 109~110頁
(2)『密教・自身の探求 『菩提心論』を読む』生井智紹 大法輪閣 平成20年8月10日発行