密教入門 設題1「日本密教とチベット密教の相違点」 | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

密教が今日も生きた宗教として残っているのは、日本とチベット仏教文化圏であるが、日本密教とチベット密教の相違点について論述しなさい。

 

 密教はインドで大乗仏教の中の一つの流れとして起こり、7、8世紀頃、中インドから南インドにかけて隆盛期を迎え、イスラム教徒の侵入により13世紀初めに滅亡した。

 日本密教とチベット密教の相違はインド密教600年の歴史のうち、どの部分を摂取したか、どのような経過地点、人物によって伝わって来たのか、更には両国の中でどのような発展を遂げたかである。

 最初に、源であるインド密教に関して確認する。インド密教の特徴は、六世紀までと、七世紀、そして八世紀以降、それぞれの密教を前、中、後の三期に分け把握できる。また、インド・チベット密教の経典類の分類として、「所作タントラ」「行タントラ」「瑜伽タントラ」「無上瑜伽タントラ」の四階梯に分類される。

 [前期密教] 二世紀頃から仏像が作られ、香や花を献じたり、瞑想を行う宗教儀礼が始められ、四世紀には仏教の中にバラモン教の儀礼が積極的にとりいれられ、民衆が生活のなかで信仰していたヒンドゥー教の神々も菩薩や明王となり摂取され、六世紀頃までに呪法(病気、貧困、不作、天災、不時の死などの災難から守る)の経典が多数成立した。いわゆる呪術的密教である。(1)

 [中期密教] 七世紀に大乗仏教の経典である『般若経』『法華経』『阿弥陀経』『華厳経』に説かれる唯識、中観、如来蔵を根底に据えて、更に密教の観法を融合させ成仏を説く『大日経』『金剛頂経』による密教。(1)

 特徴は、①本尊が大日如来である②成仏を主たる目的とする③身口意の三密行を用いる④曼荼羅を完備している。があげられる。次に、各根本経典を確認する。

 『大日経』の梵本は未発見である。

 漢訳は、善無畏三蔵が、唐の開眼十二年(724)、弟子の一行禅師の協力を得て訳出した『大毘盧遮那成仏神変加持経』七巻。

 チベット訳は、九世紀初めシーレーンドラボーディとペルツェクによる『大毘盧遮那の現等覚によって化作された加持大乗経の帝王と名づける法門』がある。

 特徴は、「三句の法門」「五大・五輪観」「四点 発心・修行・菩提・涅槃」「五字厳心観」「胎蔵界曼荼羅」にある。「行タントラ」に属する。

 『金剛頂経』は、狭義と広義の二様がある。狭義は『初会金剛頂経』と呼ばれ、梵本の経題の一部をとって『真実摂経』とも言われる。梵本はG・トゥッチによって発見されたネパール写本がある。

 漢訳は不空訳『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』3巻、金剛智訳『金剛頂瑜伽中略出念誦経』4巻、施護訳『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧大経王経』30巻がある。この内、不空訳が『初会金剛頂経』の第1章に当る「金剛界品」の翻訳であるのに対し、約250年後に訳出された施護訳は、「金剛界品」「降三世品」「遍調伏品」「一切義成就品」の4章すべてが訳出され、梵本やチベット訳ともよく一致する。金剛智訳は厳密には『真実摂経』の翻訳ではなく、系統のことなる儀軌である。

 チベット訳は11世紀の中頃にリンチェンサンポとシュラッダーカラヴァルマンによって訳出された。

 広義の『金剛頂経』は『初会金剛頂経』をもとにさまざまな密教経典を生み出し一つのグループを形成した。

 特徴は、「大大日」「五智如来」「金剛界曼荼羅」「五相成身観」にある。「瑜伽タントラ」に属する。(2)

 [後期密教] 八世紀以降に『金剛頂経』系統の密教がヒンドゥー教のタントラの影響を受け始め、九世紀には実践法や仏像の形や名称もヒンドゥー教と酷似してくる状態となる。タントリズムは、ヒンドゥー教であれ、仏教であれ、ジャイナ教であれ、さまざまな非倫理的、反道徳的な行為を悟りへの道としてすすめるものである。社会的なタブーを犯すことによって、自己の絶対的な自由を獲得しようとする。バラモン教の支配するカースト制度、習慣に徹底して逆らい、そこで尊重される浄の観念をあえて放棄するのが、タントリズムの行動方式である。(1)

 ただし、密教はタントラの技法をそのまま取り入れたのではなく、純化した。純化とは仏教本来の目的である悟りを得る方法に作り直すことである。優れた行者の観想法の体験が人々の日常の生活態度を浄化するように働き、その体験を中心とした理論体系も生まれた。経典分類では「無上瑜伽タントラ」に属する。

 「無上瑜伽タントラ」は父・母・双入不二の3種に分けられる。

父---『秘密集会タントラ(8世紀後半の成立)』『幻化網タントラ』『黒ヤマーリタントラ』等

母---『ヘーヴァジラタントラ(8世紀末、9世紀成立)』『チャクラサンヴァラタントラ』『サンヴァラウダヤタントラ』『サンプタウドヴァタントラ』等

双入不二---『時輪タントラ(11世紀)』

 特徴は、枠組みでは中期密教の『金剛頂経』とほぼ同じであるが、教義と実践の両面において、よりいっそうの徹底(極端)化が図られた。①現世成就(生理的行法の活用)②象徴万能主義(般若とは女性、方便とは男性に喩えられる性的ヨーガ)③解脱至上主義(解脱のためなら手段は選ばず)④師の絶対性(秘技的な実践では実証を保証する師匠が絶対的な権威となる)⑤秘密保持となる。

 実践法として生起次第(聖なる存在を日常世俗の世界へ引き出してくる過程、具体的には曼荼羅の完成)と、究竟次第(修行者が聖なる存在へと上りつめる行法、具体的には性的ヨーガなどの実践)がある。(2)

 最終段階である『時輪タントラ』は、父タントラと母タントラを止揚統合する「不二タントラ」といわれる。構成は、「世間品」「内品」「灌頂品」「成就品」「智慧品」からなり、「外(須弥山世界の構造、天体の運行)、内(輪廻転生と身体構造)、別(ミクロ界とマクロ界の対応関係を示した身口意具足時輪曼荼羅)の三時輪」に要約される。宇宙論と生理学説を統合して巨大な思想体系をうち立て、仏教が発展させてきた、さまざまな理論と実践体系の総決算の地位を占めている。(3)

 次に、日本の密教は奈良時代に中国を経由して、インド密教の前期部分が伝来されている。百三十部に及ぶ密教経軌が渡来し、書写されていた。これは現存の密教経軌の四分の一弱に相当する。『陀羅尼集経』『仏頂経』『観世音経』『十一面経』『大灌頂経』『随願往生経』『虚空蔵菩薩陀羅尼経』『千手千眼経』などのダラニ経典が圧倒的に多いことからもわかる。(4)

 平安に入り最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡(入唐八家)により中期密教が請来される。

 特に空海は恵果阿闍梨より、『大日経』『金剛頂経』の両系統を統合した形で密教を継承され真言宗を設立した。『御請来目録』を見ると下記にあるよう当時の中期密教の全てが網羅されている。

 1新訳および旧訳の聖教142部247巻 2梵字で書かれた真言・讃・儀軌など42部、44巻 3論書・疏・その他の注釈類32部、170巻 4曼荼羅・諸尊図、伝法阿闍梨の影像などの図像10鋪 5法具9種18品目 6師恵果阿闍梨から付囑された品13点。(5)

 日本の密教の特徴は、奈良、平安時代に「中国経由」の「中期密教の請来」による東密、台密の設立で頂点をなし、内では野沢根本十二流、新義真言にみられるよう事相面で分流していき、外では神道、南都仏教、鎌倉専修仏教とも争うことなく宗旨を保持してきたことにある。

 運営基盤としては、江戸時代までは各時代の為政者と様々な形で結びつき運営基盤としてきたが、明治の廃仏毀釈、戦後の政教分離を経て、現在は1951年施行の宗教法人法に基づく運営となっている。

 対してチベットの密教は、前伝記(779僧伽が発足~841ランダルマの破仏)と後伝記(1042インド学頭アティーシャの招請~)に二分できる。

 前伝記の密教は、呪殺などによって王室に害を及ぼしかねない危険な存在として、禁止されたと伝えられている。しかし、インドの密教がさまざまな形でチベットの大地に浸透し始めていたことは確かであり、それは敦煌文書のチベット語文献の中に『秘密集会タントラ』のチベット語訳その他の密教の典籍が含まれていることからもわかる。

 後伝記は、西チベットの大翻訳官リンチェン・サンポの活動、アティーシャの活動により始まる、アティーシャの弟子ドムトゥンがカーダム派を興し、これにサキャ派、カギュ派が続いた。古代王国時代の仏教の伝統を受け継ぐニンマ派も教団としての形を整え、十五世紀初頭にゲルク派が現れた。かくしてチベットに再び熱烈な仏教の時代が訪れ、仏教に関る学問や芸術は、最高度に発展する。日本にはない「後期密教の継承」がなされている。(6)

 更に、大きな特徴として、1642~1959の法王ダライラマによる神権政治である。世界でも稀な仏教(密教)国家である。

 思想的には、ゲルク派の祖師ツォンカパによる律・般若・中観・唯識・密教といった仏教のさまざまな伝統をどれ一つ省くことなく、1人の人間が仏に至までの修行階梯の中にそれぞれ位置づける教学体系をつくりあげたことである。主著の『菩提道次第大論』『大真言道次第』に詳しい。

 ゲルク派の修学の例をあげれば、科目は、一般大乗の五科目、すなわち論理学・般若・中観・小乗戒・『俱舎論』を、それぞれ順に三、四年をかけて学ぶ。学習を終えるのに約20年はかかる。すべての科目を修めた者にはゲシェー(博士)の学位が与えられる。密教はその後に学ぶものとされている。(7)

 十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのチベットは、清朝と、英国、ロシアとの角逐の舞台となる。結果、1959年3月ダライ・ラマ十四世がインドに亡命、チベットは中国のチベット自地区となる。教えは亡命先で脈々と伝承されている。 

(1)『密教』松長有慶著 岩波書店 1991年7月19日発行

(2)『インド密教』立川武蔵、頼富本宏編 春秋社 1999年5月28日発行

(3)『超密教時輪タントラ』田中公明著 東方出版 1994年12月1日発行

(4)『密教の歴史』 松永有慶著 平楽寺書店 1969年1月10日発行

(5)『奈良期の密教の再検討ー九世紀の展開をふまえて』ー阿部龍一(奈良仏教と在地社会

   岩田書院 2004 編者 根本誠二、サムエルc モース P105~P153)

(6)『チベットの密教と文化』奥山直司著 高野山大学通信教育室 2004年

(7)『チベット密教』立川武蔵、頼富本宏編 春秋社 1999年8月12日発行