『君に会えた街を偲んで』 | 本門佛立宗 相模原妙現寺 サァクルナイン

『君に会えた街を偲んで』

 

『君に会えた街を偲んで』

 

第二次世界大戦後六年、赤い髪をした私は生れました。

 

それから3〜4年。

ものごころ付き始めた頃、まだ焼け跡の空き地が残る街を、母親に手を引かれ親戚の家へ立ち寄ったり、買い物に付き合わせられたり、母の友人との立ち話しに付き合わせられたりした記憶があります。

 

若い母達の馴染みも深く、終戦後、復興の兆しがみなぎる象徴的な商店街でもありました。

 

母たちと、

回廊の様になったその商店街を一周しては、戻ってきて、また更に一周するという辛さに「もう!」と子ども心に、チョット苦痛になったりしたものでした。

 

 

この商店街の近くには海が近くで波止場も有りました。

そして、小さなレコード店も有ったのです。

 

そこへ、

歌手で女優の「美空ひばり」さんがやってくる?という噂が本当になり「ひばり」さんがやって来たのです。

ボクはその頃から映画が好きで、叔母たちに映画を観に連れて行かれ「美空ひばり」さんが好きになりました。

 

その頃の「美空ひばり」さんは

『港町十三番地』を歌っていたように思います。

 

その商店街には様々な店が立ちならび、ヘビを入れた漢方薬局の透明硝子のショーケースや、刀を展示している店のショーケースに、鼻より出っ張ったおデコを硝子にペタっとくっつけて長い時間眺めたりと・・・、そんな店がある商店街が飽きもせず好きだったのでした。

 

ちょっと変わった子供だったのかも知れません。

 

古くから賑やかだったその商店街。

後の1995年(平成7年)1月17日午前5時46分「阪神淡路大震災」が発生し、多くの人々が被災しました。

多くの人々が戦時下に焼け出され追われた様に、震災でも多くの人々が亡くなった街でもありました。

 

今年で戦後80年、阪神淡路大震災から30年が経ちました。

大きな回廊の様になった商店街は戦争、震災と2度も火災・大火に襲われ大打撃をうけ、哀しい想いを抱えた沢山の人々が住む街でした。

 

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ボクも小学2年生になりました。

 

その頃になると母親と歩くより、その商店街にある自転車屋さん(今で言うレンタルサイクル)で自転車を借り、その商店街回廊をグルグル乗り回して遊んでいた方が楽しく面白くなったのでした。

 

 

ある日、

いつもの様に子供用自転車を借りようと、握りしめた5円玉を、

 

(ボク)「おじさん自転車貸してェ」と言って渡そうとすると、

 

(おじさん)「今日は子供用自転車無いヮ大人用の自転車しか無いけど、どうする?」

 

小学二年生になって少し「おませ」になったボクは、

 

(ボク)『それでえェわ!』と言いきり

 

(おじさん)「大丈夫かァこれしか無いけどえェのんかァ⋯?」

 

(ボク)『かめへん!かめへん!』(OK!OK!という意味)

 

(おじさん)「気ぃ付けて乗りや」

 

おじさんは路地にある自転車を乗りやすいように店の前に出してくれたのでした。

 

ボクは、

その大人用自転車をサドルを跨がず、片側のペダルに足を乗せケンケンで助走して勢いつけ!

もう片方のペダルは自転車のサドルの横桟パイプの間から足をくぐらせて、ペダルを踏む横・斜め乗りし商店街を回廊巡りの様にして乗り回し遊んでいたのです。

 

 

自転車を乗り回して満足すると、市場の丸い大きな時計は貸し出し終了の時間をさしていました。

 

「あッ!アカン!早ょォ 返さなァ!」

 

店に戻そうとしたその時、同学年くらいの女の子とその母親らしき二人が目の前をゆったりと歩いていたのに気づきました。

 

 

不安定な横斜め乗りをしていたボクは、自転車を斜めに倒して路面を小走りしながら飛び降りたその瞬間!目の前にいた女の子にぶつかりそうになったのです。

 

すると、その子のとなりにいたオバサンがサッ!とその子を抱き寄せて

 

(おばさん)「危ないやんかッ!ちょっとあんたどこの子や!」と一喝!キツい口調で叱られたのでした。

 

(ボク)「ゴメンナサイ」(ワァー怖いオバサンやなァ)

 

(ボク)「でも、あのオバサンと一緒にいた女の子可愛かったなァ。一度だけ、話しがしたいなァ」と思ったのです。

 

その後、

商店街で何度か見掛けはしたのでしたが、いつも隣にオバサンが一緒にいるので怖くて近づけなかったのです。それでも、その子の顔とオバサンの顔はセットで記憶していました。

 

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小学校4年生になった頃、

 

時代はエルビス・プレスリー全盛で叔父のレコードが低音で唄っていました。

 

『ブルー・ハワイ』です。

 

丁度その頃にはアメリカ製品の舶来品で街はあふれていました。

 

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中学2年生になりました。

 

戦後の第二次ベビーブームの子供が多く、生徒が溢れていました。

 

ある日、

別のクラスの教室に勝手に入り、グランドが見える2階の窓からパイプ教室(プレハブ校舎)の方をいつも通り何気なく眺めていました。

 

すると!

向こうから、こちら側の購買部にパンを買いに少し眩しそうに歩いて来る女の子がいました。その子はまさしく、あの市場で自転車をぶつけそうになった女の子でした。

 

(ボク)「あッ、やっと会えた!一緒のクラスになりたい!」と思いました。

 

それから1年。

中学三年生になって「現代国語が好きです」と自己紹介した君にやっと会えました。

 

同じクラスになれたのです。

 

その年はビートルズが「ヤーヤーヤー」と日本にやって来た年でしたが、ボクのこころも「ヤー!ヤー!ヤー!」と浮かれたのでした。   

 

君と同級生になり、友人にもなり、話も出来るようになりました。

 

やっと君に会えたのですね。

 

思い返せば、

君が隣にいてくれたことで、

 

いまボクは、

戦時下で大火から逃れて亡くなった方々、

各災害で亡くなった方々、

そして、私を見守ってくれた今はもういない両親に、

 

優しい「こころ」で、手を合わせることができます。

 

戦後80年をむかえ、

震災から30年がたち、

そして、君に出会って70年たった今、

 

今はもういない君、あの街を偲んで、ご回向をさせていただきます。

   

『南無妙法蓮華経』

 

【合掌】