最近、お友達の犬と、お友達の猫が天に帰りました。
にゃんこちゃんのご供養は当日、駆けつけることができました。
わんこさんの友人は遠方だったので、翌晩に伺いました。
どちらの友人とも、一緒におお泣きです
何日たっても、友人をいつも思います。
「苦しいだろうなぁ・・・」
「泣いてるんだろうナァ・・・・・」
「ご飯、食べてるのかなぁ・・・」
「眠れてるかなぁ・・・・・」
メールをするのも、打っては読み直し、
打っては消し・・・・の繰り返しです。
「この言葉には傷つかないだろうか・・・」
「こんな伝え方はどうだろう・・・・」
最愛のペットを亡くした友人には、本当に言葉がありません。
「できるものなら、少し背負ってあげたい・・・・」
そう思うのですが、当然できるハズもなく・・・・・。
「私には何ができるのかな・・・?」
と、いろいろ考えるのですが、ほんと~~~~に、
びっくりするほど、できないのですよ。
これは、自分も通った道なので、思うのですが、
本当にこればかりは、自分自身が時間の経過の中で、
諦観していく・・・・ことだと。
でもでも、その辛さが苦しさが、寂しさが、刹那さが、無念さが、
自分のことのように、思われるのです。
大好きな友達が、泣いている・・・・。
私も苦しい・・・・・
でも、こんなときに改めて思う。
しゃもんを失うことを想像していたとき、
「なんで人生にこんな苦しみがあるのだろう・・・」
と、思っていたけれど、
今ならわかる。
大事な友人が、縁ある人が、最愛のペットを亡くして泣いているときに
一緒に泣くために、私は自分の犬の死を体験したのだ。と。
誰かに共感するために、何もできないけど、せめて一緒に寄りそうために、
私は自分の犬の死を体験する必要があったのだと。
ブログを読んでくださる方が、にじおの死に泣いてくれたように、
本を読んでくれた方が、登場犬・施設の猫の死に泣いてくれたように、
私たちは、なんとも優しいつながりを持つのだろう・・・・。
愛しい子を天に返すのは、身体が千切れるほど、辛いけど、
そんな「気持ちをわかりあえる人」とつながれたのは、
人生の宝だと思うのです。
それは、今、これを読んでくださっている「あなた」です。
ありがとう。
そして、タラちゃんママと、銀ちゃんママに、どうかどうか
神さま・・・ご本尊さま・・・・ご加護を・・・・・・。