お経のはじめにお唱えする、懺悔文(さんげのもん)  | お寺と神仏のほどけるはなし

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成田山八王子分院 傳法院にて、護摩祈祷とよろず相談をしている真言密教の尼僧です。仏教はあなたの中の「きまりをゆるめる」宗教。そのお手伝いをしています。

真言宗では、お経の初めにまず、懺悔文(さんげのもん、さんげもん)をお唱えします。

 

 

懺悔文

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう しょあくごう)

皆由無始貪瞋癡(かいゆうむし とんじんち)

従身口意之所生(じゅう しんくい ししょしょう)

一切我今皆懺悔(いっさい がこん かいさんげ)

 

傳法院では、読み下し文でお唱えしますので次の通りです。

 

我れ昔より造る所の諸の悪業は
皆な無始の貪瞋痴による
身語意より生ずる所なり
一切我れ今皆な懺悔し奉る

 

(よみ)

われむかしより つくるところの もろもろの あくごうは

みなむしの とんじんちによる

しんごいより しょうずるところなり

いっさい われいまみな さんげし たてまつる

 

この意味は、次のようなものです。

 

私が、太古の昔からつくってきた、たくさんの悪い行いは、

身体と言葉と心によってなされましたが、

 

それは、むさぼりと怒りと愚かさが原因です。

それらすべてを、私は悔い改めます。

 

 

ご祈祷や供養を始める、一番最初にお唱えするお経ですが、

これを唱えるたびに思うのですね。

 

仏教は悪業を行うことに寛大だな~、って。

 

悪い行動をすること、

悪い言葉を発すること、

悪い心を持ってしまうこと、

これらに対して、

 

しちゃいけません、

しないようにしましょうね、

 

と制限するのじゃないのですね。

 

 

もちろん、それは当たり前の前提としてあることです。

悪業、

悪口、

悪だくみ(?)

などは、「しない」、のが当然の前提なのですが、

 

 

大抵、どなたも、自分では意識していない部分で、ほかに迷惑をかけているものです。

 

 

知らず、虫を殺していたり、植物や動物の命をいただいていますし、

人に対して、親切のつもりでした行為でも、相手にとっては迷惑だった、ということもよくあることです。

 

 

 

良い、悪い自体、厳密に分けられるものでもありませんしね。

 

 

見かた、捉え方によっても違いますし、

 

その時は善き行いでも、時間が経つと、ひっくり返ったり。

逆もありますよね。

ひどい目にあった、とその時は思っても、のちのち、あれがあって良かった、助かった、

となることも結構あります。

 

 

なので、

「なるべく迷惑をかけないように」といましめをもって暮らして、ちぢこまるのではなく、

 

人は未熟なものだから、むさぼり、怒り、愚かさがあるものだ。

それらによる、悪いこともしてしまうものだ。

だから、

素直に未熟であることを認め、悪業を積んでしまっていることを懺悔しよう、ということなのですね。

 

 

 

そう、人の浅知恵ではわからないこともあるし、所詮、絶対に善き行いだけをすることは無理なので、

大雑把にやっちゃいけないことを知り、やらないと決めたうえで、

それでも、知らず悪業は重ねているものと観念して、懺悔し許しを請うのです。

謙虚ですよね。

 

 

そして、仏教っておおらかだな~と思います。

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