この日ずっと病院に母と二人で居て
だんだん母がかわいそうになってきた。
高齢者は皆家族とみられる誰かが付き添っている。
家族のいない人は職員さんにきてもらうんだろうが
やはり今の日本は基本、家族が世話をするのが当然という感じだ。
私には子供がいないので、
自分が年を取ったら面倒を見てくれる人はいない。
私のことを考えて、こうしたらいいんじゃないか、
少しでも幸せに暮らせるようになんて、
考えてくれる人もいない。
自分が望んで子供を作らなかったのだし、
大体、将来自分の面倒を見させるために
子供を作るというのも全く納得がいかなかった。
(義母はこの考え方だった)
それに思惑通り子供が親の世話をするとも限らない。
夫に自分たちの時はどうするのと聞いても
「周りが見るからハラハラするのであって
本人は何にもわかってないんだから
本人は幸せなんだよ、だから大丈夫」
とかまた超楽天的なことを言ってる。
本当につい数日前、
あの介護ベッドの一件で
自分の怒りがコントロールできなくなり、
初めてもう自分は生きてても死んでても一緒だと思った。
こういう気持ちになった人が自殺するのかなって。
今まで何度も書いているけど
自分はいつも
「今死んだら何の楽しいこともない人生だった。
なんもってことはないけど
圧倒的に嫌な事の多い人生だった。
だから死ねない」って思って
死にたいなんて思ったことはなかった。
自殺する人ってきっと
たったほんの一筋の希望も見いだせなくなってしまったときに
魔が差すのかもしれないなってずっと思っていた。
死にたい気持ちがわからなかったから。
でも今回初めて
自分は生きてても死んでても一緒だ
自分の人生はなんともむなしくつまらない人生だったって思って
こういう投げやりな気持ちで死を選ぶ人もいるのかもしれないなと思った。
それと同時に
今の自分は完全に間違った方向に突き進んでいる
軌道修正が必ず必要だとわかっている
わかっているけれどこの間違った方向に突き進んでいる自分を
止めないであげたいという気持ちだった
今回母と一緒に病院に行って
病院でも「お父さん、ご飯食べたかな」なんて言ってる母を見ていると
なんというか私の中にもかつてはあった
人の優しさみたいな、そんな何か善きもののかけらがまだ
ほんの少しは残っていたような気がした
この日、自分で運転していこうか悩んでいたけど
帰りヘトヘトになりそうなので
電車で行くことにした。
行きの電車の中で
「私がこうして眠りはしないけど
こうやって目をつぶって、本当に久しぶりに自分のためだけに時間を使えて
こうしてのんびり何も考えないで座っているだけで
私を実家のある駅まで運んでくれる。
ありがとう、電車。
運転して行ってたら、ずっと注意を怠らず、気を張っていなくてはいけなかった。
運転した方が楽な人もいるだろうけど
やっぱり電車できてよかったな、
ありがとう、電車」
ってずっと繰り返し思ってた。
さとうみつろうさんのいう
「感謝してる間、しあわせ」
って知ってても
感謝なんてできないときもあるんだ。
ほんの数日前の私がそうだった。
親に電話で
「妹は一週間も家族で沖縄行って。
私は自分のための楽しみなんて何もしてないんだよ」って
ほぼ泣きながら叫んでた。
たった30分電車に乗って
ただ何もしないでのんきに座ってるだけで
目的地付近まで連れてってもらえることが
本当にしあわせだと思った。
こういうほんとにちょっとしたことで
心は救われて、落ち着くんだなと
身をもって体験した。
3日前に行った時
母が
「何よりもアイスが食べたいんだ。冷凍庫がいっぱいで
何よりも食べたいアイスが食べれない」
ってなんだかものすごい剣幕で言ってたから
母の大好きなピノを買って行った。
母はさぞかし喜ぶと思ったら
「そんなこと言った?」って。
でも少しも腹は立たなかった。
ありがとう、電車効果だと思った。
無理して感謝しなきゃって思ったんじゃない、
本当に自然に出て来た感謝だから。
病院が終わったのは17:30過ぎていた。
薬の残りを見ておいて、報告したので
今日は薬が出なかったので、これでもまだ早く終わった方だ。
帰りのタクシーは病院前にいればそれに乗れるとのことで
見に行ったら1台いたので
「乗れますか?」と聞いたらOKとのことなので
「呼んできます」と母を呼びに行った。
母は誰かと勘違いしてたみたいで
「杉山さん?」とか言ってたから
最初知り合いかと思ったけど
初めて乗る人みたいだった。
「道を教えてね」なんて言ってるから
「え、タクシー運転手なのに?」とそのときから不安はあったが
病院を出るところから
「右?左?」なんて言ってるから
私が完全に驚いてると
すかさず母が「右!」と言った。
母の方がよっぽど冴えている
思えばこの日、朝電車を降りて
これからのことを色々考えてたら(今考えなくていいのに!)
交差点で信号待ちしている時に
「すみませ~ん」と声がして
誰に話しかけてるんだろと声の方を見たら
赤い車の助手席に乗った派手な中高年の女性と目が合い
「そうです、あなたです」と言わんばかりに
「市役所はどこ?」って。
「市役所?どこだっけ?」と思ってたら
「あっち?」って言われたので
そのままうなづいた。
交差点を渡ってから、市役所の場所を思い出した。
間違ったことを教えていた。
そう私も自分でも脳の衰えを日々感じている。
両親が完全に頼りにしている私だが
とんだポンコツであることは間違いない。
こんな頼りない私だけを頼りに
あの二人は生きているんだ。
実家につくと玄関に父がいて
「何度電話してもつながらない」とまた何度も言っていた。
思えば父が老人ホームに入りたいと言い出した昨年だったか
母と二人で真夏の炎天下、
老人ホームの見学に行って
お昼を食べる間もなかったのに
あの時も同じことを言っていた。
自分は一日家にいて暇だからずっとこっちの連絡を待っていたのだろうけど
こっちは初めての老人ホームの見学で
色々わからないことをたくさん聞いて
ただでさえ暑く、母は相当疲れたと思う。
父のことなんて全く気にする余裕はなかった。
あの日もずいぶんしつこく言ってきたけど
今回は運よく自分で機内モードを押していたようで繋がらなかったようだ。
今度病院行く時も父の携帯は機内モードにしてから来た方がいいかもと思った。
帰りも電車で帰って本当に良かったと思った。
帰りが遅くなるであろうことは最初から予測できたので
夫には伝えてあった。
更に当日、予定外の検査も加わったので
「まだ病院」とLINEしたら
在宅勤務中なのに「連絡ありがとう」って返信してくれた。
帰りは私が何か夕飯を買って行く予定だったが
「ラーメンしかないけど作っておくよ」と返信があり
買い物しないで帰ることが出来た。
帰ったら洗濯物たたまないとと思ってたら
洗濯物もたたんでくれてあった。
こうして色んな人に支えられているんだなと思った。
今週の占いが
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「日常に立ち返る」ような節目です。
今週を境に、毎日の暮らし、日々のルーティーン、
いつもの居場所、そして一番身近な人々に、意識を向けることになります。
「いつもの場所・いつもの人々」に対しては、私たちはだんだんと無意識になります。
「空気のような存在」という表現は、
「ないと死んでしまうけど、あれば意識に上らないような、
最も身近で大切なもの」ということを意味します。
「あってあたりまえ」のものに、私たちはすぐに慣れ、注意を向けなくなります。
でも、それがないと生きてはいけないのです。
こうしたものに今週以降、ハッキリとした意識を向けることになります。
日常、暮らし、環境、周囲の人々に対する「意識の覚醒」が起こりそうな週です。
【出典 石井ゆかりの星読み】
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だったことを思い出した。
ブログでも夫に対して本当にひどいことをたくさん書いている。
それこそ怒りを制御できなくなっていることがわかっていても
止められない、止めなくていいという感じだった。
「空気のような存在」
って「あってあたりまえ」という意味にしかとらえてなかったけど
「それがないと生きていけない」ものだったと
この石井ゆかりさんの文章を読むまで忘れていた。
私は結局夫に守ってもらって
夫がいるから生きていけている存在なのに。
完全に無意識になっていたことを認めた。
そう気付いたのではなく、認めた。
家に帰ればちょうどラーメンが出てきて
洗濯物がたたんである
このありがたさ。
翌日は出社だったけど
思っていたほど疲れていないと思った。
母と電車と夫のおかげだと思った。
翌日出社した帰り、
チワワを散歩させている人とすれ違った。
そのチワワを見たとき
こんな風に癒される気持ちになったの
本当に久しぶりだと思った。
ありがとう、チワワ
そしてありがとう神様
私が完全に間違った方向へ
間違ってるとわかっていながら突き進んでいて
軌道修正が必要なことはわかっていても
する気もなくて
こんな私を引き戻してくださったんだと思った。