こんなことを言ったのを聞いたことがある。
「日本にいるときは何とか助けたい、
みたいに思ってたけど、
いざアフリカに来てベナン人を見ていると
この人たちはこの人たちのままで
いいんじゃないかって思うようになった。」
実際にこんな風に感じて、
国際協力への進路を断念した協力隊員を
何人か知っている。
それを聞いたときは
「何を言ってるんだ、ベナンの一部しか見ないで。」
と心の中で非難していた。
このことを後になってからふと思い出したのは、
とある本を読んだからだ。
アフリカに住んだとある記者が書いた本なのだけれど、
分かりやすく、そのまま引用します。

アフリカには想像もできないような金持ちが多数いる。
そして、そこに降り注がれる援助金の多くは
少数の特権階級の懐に消えてしまう。
その反面、時に干ばつが来て緊急援助が遅れれば
あっさりと餓死してしまう人もいる。
アフリカ人の言葉や、
彼らの生活をつぶさに伝えれば伝えるほど
ひとりで完結しているような
生の豊かさや孤高さを物語ることになり、
「助けなくちゃ」 という使命感をぼかすことになる。
ぼんやりとアフリカの貧民街を眺め、
望遠レンズで貧しげな子供の絵を切り抜いているとき
「何とかしなくては」 という思いは沸きやすい。
しかし、目をこらしてそこに暮らす1人1人の生活をのぞき、
その中におりたってみたとき、
空気がすっと変わり頭の中のモヤが晴れる。
そして 「何とかしなくては」 という切迫感はいつの間にか消える。
つまり、対象についての知識がないほど
「助けなくては」 というメッセージは響きやすい。
漠然と無数の人々への援助を与えるよりも、
救うべき相手をまず知ることから始めなければならない。
自分が親しくなった1人でいい。
貧しさから人を救い出す、
人を向上させるということがどれほどのことで、
どれほど自分自身を傷つけることなのか、
きっと分かるはずだ。
1人を終えたら2人、3人といけばいい。
一般論を語るのはその後でいい。
経験してみればきっと、多くを語らなくなる。
私は、まさにこのことを経験し
まったく同じようなことを感じている、と思った。