援助の失敗例 | アメリカの大学院で勉強する、舞のもぐもぐブログ

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旧『ベナンで活動する舞のもぐもぐブログ』 

2008年6月~2010年6月の2年間、青年海外協力隊として西アフリカのベナンという国で活動しました。

2012年8月から2014年5月まで、アメリカのブランダイス大学院(Brandeis University)で国際開発学を勉強しました。

パソコン たまにテレビで、
芸能人がアジアの国などに物を提供して
子供達が大喜びする様子を
伝える番組があるけれど、あれってどうなんだろう??

援助って本当に難しい、と思う。
その場限りのものであるならば、
やらない方がいい場合もある。

特に物の援助。
形あるものはいつか壊れるので、
継続して送ることができないなら
やらない方がいい場合もある。

1つだけ例をあげるとすれば、
例えば裸足で生活する村の子供に
くつ 運動靴をあげる場合。

もらえなかった村の人やとなり村の子供たちは、
うらやましく思い、かえって不幸な気持ちになるかもしれない。

運動靴が壊れて履けなくなったら、
今までの裸足での生活が
前より不幸に感じてしまうかもしれない。

子供たちは外国人が訪れるたびに、
靴や物をねだるようになるかもしれない。

それだったら、かえってやらない方がいい場合もある。

子供たちの喜ぶ顔を見て満足するのは、
自己満足にしかすぎないこともあるのだ。

他にはこんな例も考えられる。(本より抜粋※下で紹介)

ストリートチルドレンに鉛筆やノートをあげれば、
その子供達はそれらを売って、
代わりに麻薬を買うかもしれない。

靴磨きの子供に通常の100倍のチップを上げれば、
その子供はそれ以降、外国人にしか相手にしなくなり
さらに法外な値段をふっかけるようになるかもしれない。

さらに・・

学校を建てれば、運営がうまくいかず
放ったらかしになる例。

井戸を作っても壊れたら誰も治せず
放ったらかしになる例。

そんな例は、公に広報されないだけで、
いくらでも聞く。

安易な施しは人を墜落させ、
相手の事情や価値観を無視した善意は
相手にとっていいとは限らない。

さらに、その土地や事情にあった
金額や物、方法を見極める必要もある。

自分が与える影響に対して、
あらゆる想像力を働かせ、
先を見通さないといけないので、
本当に本当に
「相手のために何かをすること」 は難しい><

逆に、何かをする場合は、
ここまで色んなことを考え
慎重にしなければならない、と思う。

キーワードは
「公平性」  と 「規模の適正」 そして 「継続性」
だと個人的には思っているけれど、
結局、相手と一緒になって
時間をかけて地道に少しずつやっていくものが
一番長続きし相手のためになるのかもしれない。

※興味のある人は
「開発援助の社会学」 佐藤 寛