柚木麻子さんの『終点のあの子』のレビューです。

 

こちらは、都内の私立女子高に通うお嬢様たちの人間関係を描いた少女小説になります。

 

「女子高生の友情は、すぐに敵意にかわる」がキャッチコピーの、全4編収録の連作短編。思春期特有の微妙な心の揺れを思い出す、ちょっぴり切ない内容になっています。

 

 

 

 

 フォーゲットミー、ノットブルー

 希代子は世田谷にあるプロテスタント系の私立女子校に通う高校一年生。今の学校には中等部から在籍する「内部生」です。高等部に進んでからは、高校受験組の「外部生」が加わり、これまでと少し教室の雰囲気が変わったことを感じています。その原因となっている主な人物は、外部生の朱里と恭子です。遅刻や欠席が当たり前の自由人な朱里と彼氏持ちで派手な容姿の恭子は、イイコちゃんばかりで男友達すらいない内部生にとって”一歩進んだ存在”として眩しく映っています。


ある日、憧れの朱里から声をかけられた希代子は、その日を境に急速に親しくなっていきます。仲良しの森ちゃんそっちのけで朱里に夢中になる希代子ですが、朱里自身は特定の誰かと群れることを嫌っているため、なかなか一番の仲良しにはなれずもどかしい気持ちでいます。そんな心を見透かされてか、希代子は朱里から試されるように「サボリ」に誘われますが、途中で怖くなりひとり学校へ向かいます。しかし、のちに朱里からそのことを意気地なしとバカにされていたことを知った希代子は、急激に朱里を懲らしめたくなり・・・。

実は少し前に朱里の日記を読んでしまった希代子は、そこに自分を含むクラスメイトの悪口が書かれていたことを知り、激怒していたのです。「この日記を皆に見せてたら朱里を反省させられる」そう思った希代子は、朱里がちょうど恭子の彼氏にちょっかいを出して、二人を別れさせたことも好材料になり、それを実行してしまいます。

こうして瞬く間に朱里は嫌われ者になりますが、すぐさま彼女の親が学校に苦情を入れ、希代子たちは裁かれます。一時、恭子と結託して朱里外しをしていた希代子は、あっという間に日記を晒した犯人として噂になり、その後卒業まで存在感を消して過ごすことになります。一方、朱里は被害者として過ごすことになりますが、もとから自分以外の生徒を「普通」の人間だと見下していたこともあり、結局友達ができないまま卒業します。

タイトルの「フォーゲットミー、ノットブルー」とは、「勿忘草の青」という意味の絵具をさします。かつては同じ美術部で仲が良かった希代子と朱里の切ない思い出の色。卒業後、ふたりは別々な道を歩み、もう二度とまじわることはありませんでした。

 

 朱里

 卒業後、美大に進学した朱里は、そこでもトラブルを起こします。ここからは私の考察になりますが、朱里は有名カメラマンの父親を持つことから、自分も”他とは違う特別な人間”であろうとしているところがありました。高校時代も周囲に対し「凡人」だとマウントを取って嫌われていたのですが、実際は「凄いのは親だけ」だと呆れられていたことに気づいていないようでした。


朱里は人と違うことが好きなのではなく、人と違うことをする自分が好きなようでした。おそらくその姿は、同世代の子たちからはとてもダサく映っていたのでしょう。最初は、あの奥沢エイジの娘ということで注目されても、すぐに朱里の本質は見抜かれ、みんな去っていきます。

そんな朱里も大学生になると、自分の限界を知ることになり、最後の悪あがきをします。これまでは相手の言うことを否定することで、自分は凡人の感覚とはちょっと違うアーティスト気取りをできたのですが、就職活動を控えた同級生を前に、もうそれは通用しません。彼氏からも、友人からも、朱里の言っていることは非現実的で、父親という安心材料がある恵まれた人間にしか持てない発想だと言われます。朱里が好きなことを楽しめるのは父親のおかげで、ただ嫌なことから逃げているだけの悲劇のヒロインだと、自分は何もしないくせに人の批評ばかりしている最低な人間だと、気づかされてしまうのです。

  

またもや見放された。こんなことをもうずっと繰り返している。最初、女の子たちは朱里を面白がり、羨望する。しかし、あっという間に弱さを見抜かれてしまう。飽きられ、捨てられる。それが怖くて、誰よりも早く電車に飛び乗ってきたつもりだ。終点にたどり着くのはいつも一番乗り。それでも、すぐに追いつかれてしまう。こちらの顏もろくに見もせず、彼女たちは再び電車に乗り込んでいく。朱里にとっての終点は、向こうにとっては折り返しの始発駅に過ぎない。気づけば、細く消えていく電車を見つめ、無人の駅に取り残されている。(P197)

 

 青春

 最初は朱里の自由さに憧れた希代子も、途中から朱里に友達を奪われた森ちゃんも、そして朱里に彼氏を奪われた恭子も、朱里への怒りの根源となった共通点は、「自分がちゃんと青春を送れているのか」という不安でした。


今となっては何をもって青春というのかはわからず、若いというだけで青春のようにも思えますが、私も当時は「何か」をしないと健全な十代ではいられない焦りのようなものがありました。ただ機械的に学校と家を往復するだけの日々や真面目に勉強するだけの日々では何も得られないのではないか。恋愛やバイトもそうだし、他の同級生がやらないような冒険をしている人こそが正しい高校生活を送れているような気がする―

希代子たちのような温室育ちの子にとっては、特にそんな思いが強く、朱里のような子に焦りを感じてしまったのだと思います。ちゃんと青春できている子に「そんなの変だよ」「おかしいよ」と言われてしまったら、負けてしまっていると思う気持ち、自分が間違っているのだと思う気持ち。よーくわかります。

ただ、実は青春って真面目に生きることが最強に青春なのだと思います。それは(本人が心から願っているのであれば)恋愛、バイト、遊び、勉強なんでもいいのですが、単調だと思う中でも、精一杯悩んで、何かに打ち込んだものがちなのです。友達を失い、勉強に打ち込んだ希代子は東大に合格したし、「冒険」をして変わっていくクラスメイトを見て焦った森ちゃんは禁止されているアルバイトに挑戦して成長できたし、夏休みの間だけ地味グループの保田さんと毎日過ごした恭子は自分の生き方を客観的に見る事ができたし、その時本人たちは自分の行動をカッコ悪く思えたかもしれませんが、その「真剣」は裏切りません。

若い頃ほど真面目さをダサいと思って避けたり、隠しがちですが、それに真正面から向き合う準備ができた人ほど、後々のリターンが大きい気がします。特別なイベントはなくても、ひたむきさそのものが「青春」と言えたりするのではないでしょうか。

残念ながら高校時代の朱里はそこから逃げてしまった一人ですが、どんなにカッコ悪くても、青春ぽっくなくても、一度自分自身を直視するような体験をすることに損はありません。ダサいな、青春じゃないなと思うことでも、それが自分らしい本来の姿ならOK。ありのままで、真面目に生きることこそが、うわべだけの青春アピールよりも大事なのだと思いました。

 

 感想

 個人的に好きなのは、「ふたりでいるのに無言で読書」という恭子がメインになる話です。キラキラグループに属する恭子がオタクグループの保田とひと夏を過ごすという内容なのですが、最終的には互いに元のグループへ戻るものの、そこが本来の居場所だと納得しての行動なので、あまり残念な感じがしない不思議な話になっています。


派手な子と地味な子、大勢でワイワイするのが好きな子、孤独を愛する子。これが望んではないのに、その立場に置かれているのなら気の毒ですが、彼女たちの場合は正反対なのに交流を持ったところが面白かったです。相手に教えられる部分もあれば、ちっとも理解できない部分もある。一緒にいて落ち着く時もあれば、違和感しかない時もある。

ただ、本来話す機会もないであろう二人が、短い高校生活の中で一時でも互いを知ろうとした時間は、とても尊いと思いました。普段一緒に過ごすには価値観が違いすぎて難しいけれど、一瞬でも自分とは違う人間に触れてみようと思う気持ちが互いにとって良い刺激になったのではないかなと。結局、違う世界の人だったけれど、同じ時を生きる仲間ではあるという安心感のようなものを得られたのは、今後のふたりの人生においてプラスになるのではないでしょうか。

改めて青春とは、誰かに「青春しているよ!」と見せつけるものではなく、自分の中で育むものであると思いました。彼氏がいるアピールをみんなにしていた恭子より、夏の間だけこっそりと保田と読書を満喫していた恭子の方が自分と向き合う時間を持て、青春していたと思います。

とにかく周りではなく、自分と向き合うことが青春の条件ですね。朱里は周りと違うことをする自分を目指していましたが、自分と向き合う点においては欠けていたのが残念でした。しかし、大学では素晴らしい友達ができて、彼女の意地をほぐしてくれるのでお楽しみに。

本書はとても読みやすい本なので、興味のある方は迷わず読んでみてください。「強さ」のようなものを改めて確認できる内容なのでオススメです。

以上、『終点のあの子』のレビューでした!