こちらは源氏物語を現代風に読書したらどうなるかの解説書(のようなもの)になります。
私たちが『源氏物語』をどう頑張っても平安時代の人の感覚と同じように読むことはできません。現代語訳を楽しむことはできますが、千年前の感覚でその言葉を楽しむことは不可能。なぜなら言葉は時代と場所と共にあるからです。
さらにもう一つ、私たちが『源氏物語』を読みにくい理由として、社会規範の問題があります。現代と当時の社会規範があまりに違うため、そこに拒否反応が出てしまう人も多いのではないでしょうか。実は今、世に出ている『源氏物語』には言葉の古さを越えられるように研究されたものはあっても、社会規範の壁をどうするか、という研究はあまり行われていないそうです。
そこで、立ち上がったのが今からご紹介する『ミライの源氏物語』の筆者・山崎ナオコーラさんです。山崎さんは『源氏物語』を古く差別的な社会規範の影響を受けてできた作品であることを認めつつ、それを未来に活かす読み方にできないかと模索しています。作中に(今となっては)差別といえる内容はあっても、紫式部が素晴らしい文学者であるということには変わりがない。そう思う山崎さんは本書で、社会規範をひとつずつ取り上げ、「こんな読み方をしたら、面白い読書になるかも?」という提案をしています。
ルッキズム
末摘花は、『源氏物語』の中で唯一美しくないヒロインです。若い光源氏は悪友たちから「元々は高貴なのに、今は落ちぶれて困っている、美しいお姫様がいる」という噂を聞きつけて末摘花に暗がりの中で接近し、襲いかかります。ところが朝になり、明るい中で末摘花の顔を見て、あらびっくり。光源氏は末摘花がおブスだと知ってしまいます。その後、光源氏は紫の上との遊びの中で、末摘花の顔マネをしてふざけ合うというシーンが登場するのですが・・
おそらくこのシーンを当時の人は「あらあら、仲がよろしゅうて」とほんわかした気持ちで読んでいたのでしょうね。視点はあくまで光源氏です。しかし、現代の読者はどうでしょうか。きっとネタにされてしまっている末摘花の方に気持ちを寄せてしまうのではないでしょうか。少なくともほほえましいシーンではありませんよね。現代人の感覚では、これは悪口になります。
最終的に、末摘花は一時、光源氏に捨てられたものの、妻のひとりとして二条東院に迎えられます。だから幸せじゃん♪という見方がされているようですが、山崎さんはそれよりもこう読むのも面白いのではないかと問いかけます。
「位が高くなくても、かっこよくなくてもいい。末摘花を哀れんで金をくれる光源氏なんかではなく、貧しくてもいいから、本当に末摘花を理解し、赤い鼻を愛してくれる人と出会って欲しかった。『容姿が悪いのに面倒を見てもらえて幸せだった』なんてことで満足はできない。末摘花が、ちゃんと愛してもらえる結末が欲しかった」P33
ロリコン
光源氏が幼い紫の上を自分好みに育て上げたというエピソードは『源氏物語』の中でも有名な話ですよね。ふたりが出会った頃は、光源氏が18歳で、紫の上が10歳くらい。問題なのは年齢差ではなく、相手が子どもだということです。現代の感覚で言えば、「10歳の子に自分好みの女性に育ててあげるね」と声をかけちゃう光源氏は、正真正銘のロリコンです。
しかし、当時の感覚からしても、女性(当事者)にとってそれは本当にありがたいことだったのでしょうか?おそらく紫式部もこの展開はヤバくて面白くなるわ!と書いていそうです。10歳から性的に魅力を持つための訓練のみを受ける暮らし。他にも生きていく上で大切なことがあるであろうに。その後の生き方に闇を残すこと間違いなしです。
そもそも光源氏は紫の上のことを「好きな人と顔が似ているから代わりになりそう」という目で見ているんですよね。現代人で、ひとりの人間・子どもをこんな風に見てしまう人がいたらちょっとコワイです。おまけに紫の上の祖母が「早く大人になってね」と求めてくるのもしんどいです。子どもの期間なんぞゆっくり過ごさなくていいから、早く性的な勤めができるようになれと言い聞かせているわけですよ。こうして14歳で光源氏の「女」にされてしまう紫の上。はぁ。
山崎さんは、「女の子は、男の子よりもしっかりしている」「女の子の成長は早い」「10歳でも小さなお母さんみたいだ」という台詞は現代にも溢れていると言います。少女を大人と同じように扱ったり、大人と対等に会話できる存在として接したりするとも同じ。これは一見女性を尊敬しているように聞こえますが、少女を子どもとして尊重しないのは差別なんですね。確かに、現代でも女の子だけ生理がきたら大人扱いされる一方で、男の子は成長期がきてもそれを免れる傾向にあります。おかしいですよね、生理がきても、子どもは子どもなのに。
どんな理由をつけても、子どもは子どもなので、光源氏がロリコンと呼ばれても仕方がないのだと思います。
他にも・・
他にもこれは現代のマザコン、ホモソーシャル、貧困問題、マウンティング、トロフィーワイフ、性暴力、不倫なのではないか??という例がわんさか紹介されています。
面白いのがここで書かれている読み方も、あくまで現代の視点ということです。文学には答えがないからです。どんなにモラルが変化して、多様性の受容が進んでも、それが正しいとも不正解とも答えが出る日はきません。
だからこそ、『源氏物語』は新しい未来を迎えるごとに読み続けられていくのでしょう。
歴史もそうですが、過去の否定ではなく未来に向けてどう読めるかが大切なのだと思います。
残念ながら、私たちは『源氏物語』をそういった研究目線でしか読めませんが、いま目の前にたくさんある物語には”この時代の感覚”で楽しむことができます。そう考えると、できるだけ今のうちに名作を楽しんでおきたいなと思いますね。
本書は『源氏物語』に詳しくない人でも読めるように工夫されているので、誰でも抵抗なく読めちゃいます。私も大学時代にちろっと手をつけた程度(そして綺麗に忘れた)でしたが読めたので、大丈夫です。
勘違いしている人もいるようですが、本書は別に『源氏物語』にダメ出ししているのではなく、今ならこういう読み方もできるよね、というものなので、そこは読み手次第になるかと思います。まぁ読んでスッキリという本ではなく、ネガティブな感情で終わっちゃう感は確かにあります。目新しさも特にないかなぁ。ただ、当時ではそれが普通だったから女性側も変だと思ってなかったよ的な部分には、当時でも(女性は言わなかっただけで)嫌だったろうなぁということが書かれていたのはよかったと思いました。
嫌なことでもそれが悪いことと教わっていなければ、NOといえないのが世の中ですからね。受け入れるしか答えがなければNOという方法があることすら知らない。むしろ嫌だと思う自分がおかしいと感じちゃうというのは、現代でもありますよね。上手くいえないけれど、物語は物語として楽しめばいいし、時代の価値観はそのままで読めばいい。けれども書かれていないことが「そのままなかった」ことでもないし、過去から未来を改善できることもある。そこはひとつの読み方ではなく、じっくり読んでいけばいいのではないでしょうか。
以上、『ミライの源氏物語』のレビューでした!