これまで多くのジェンダー文学を読んできましたが、今回はポリアモリーがテーマの作品ということでこちらの作品を読んでみました。

 

大前粟生さんの「きみだからさびしい」

 

 

 

 

ポリアモリーとは、複数のパートナーと恋愛関係を持つスタイルのことをいい、昔から人を好きになることが難しかった私にとっては「どんな感じで恋に落ちるんだろう?」と興味深い分野でした。

 

 

そこでちょっと感想を書く前に、以下の<あらすじ>を読んでいただきたいのですが・・

 

 

町枝圭吾、24歳。京都市内の観光ホテルで働いている。圭吾は、恋愛をすることが怖い。自分の男性性が、相手を傷つけてしまうのではないかと思うから。けれど、ある日突然出会ってしまった。あやめさんという、大好きな人に――。圭吾は、あやめさんが所属する「お片付けサークル」に入ることに。他人の家を訪れ、思い出の品をせっせと片付ける。意味はわからないけれど、彼女が楽しそうだから、それでいい。

意を決した圭吾の告白に、あやめさんはこう言った。「わたし、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」ポリアモリーとは、双方公認で複数のパートナーと関係を持つライフスタイルのこと。あやめさんにはもう一人恋愛相手がいるらしい。“性の多様性”は大事なのはわかるし、あやめさんのことは丸ごと受け入れたい……けれど、このどうしようもない嫉妬の感情は、どうしたらよいのだろう?勤務先はコロナ禍の影響で倒産。お片付けサークルも、“ソーシャルディスタンス”の名のもと解散になった。
圭吾はゴミが溢れかえる部屋の中で、一日中、あやめさんに溺れる日々を始めるのだった――。

 

 

これを読むかぎり、ポリアモリーとモノアモリーとの恋愛を丁寧に書いた作品なのかな?と思いますよね?しかし実際は、全199ページ中99ページくらいまでは、主人公の圭吾の周りで繰り広げられている”形式にとらわれない恋愛”についてズラズラっと書かれており、なかなか本編が始まりません。おそらく恋愛の多様性を軸に書こうとしたからこそ、このごちゃごちゃ感なのかもしれませんが、思いつく限りの恋愛パターンをただ表面だけなぞって終わり!という印象でした。

 

また、しきりに「恋愛において対等でありたい」というワードが出てくるのですが、それを強調するためなのか(?)、登場人物たちが全員同じような話し方で、同じような性格といった具合なのも気になりました。枠にとらわれない関係というのは全然悪くないのですが、平等を意識しすぎたあまり、ひとりひとりが無個性になり、全部同じ人がしゃべっているみたいになっているんですよね。生意気ながら、そこら辺にはもう少し工夫が欲しかったなぁと思いました。

 

あともう一点(うるさくてスミマセン)気になったのは、形式にとらわれない恋愛をする彼らがこぞって変人に描かれていることです。本書をなかなか読み進められなかった原因のひとつがまさにコレでして、主人公たちを面白くしようとすればするほど冷めていく自分に気づき、単に笑いのツボが合わなかっただけというのも考えられますが、形式にとらわれない彼らが一番「若者」や「自由な恋愛をする人=変人」という形式にとらわれたうすら寒いキャラ設定で、少し混乱しながら読みました。

 

なんか辛口ですよね。自分でもわかっています。申し訳ない気持ちでいっぱいですが、どうしても嘘がつけなくて・・。

 

正直、合わないなぁとレビューするのもためらった作品でしたが、主人公がポリアモリーの彼女に恋をし、葛藤する姿はとても上手く表現されており、内容も深く頷けるところが多かったので、ここでもオススメしたいと思いました。たとえば登場人物たちの多くがZ世代と呼ばれる若者なので、「何をしたり、言ったりしたら相手が傷つくのか」ということを、経験する前にネットから情報を得ていることで、何事にも敏感で慎重になっている姿には切ないものがあるので、ぜひオジサンオバサン世代にも読んでいただきたいですね。

 

個人的にはポリアモリーのあやめが、自身の心の中にある無数の穴をそれぞれの男たちが埋め、足りない部分を補い合うことこそがポリアモリーの醍醐味!のように説明していたのが、そういうものなの?と、妙にさびしい気持ちになりました。ひとりの人では足りない部分を他の人が埋めてくれることで、ようやく精神が安定するってことですよね?好きな人が複数いるっていうよりは、穴を埋めていく感じ・・。うーん、実はさびしいだけなのかも。

 

逆にこう考えるとどうでしょうか。ひとりの人しか愛せない場合は、そのひとりにすべてを委ねてしまうわけで、相手に望むことや負担が押し寄せてしまう。時には相手を支配したり、独占しようとしたり・・それって平等な関係ではない??そっちのほうが不自然?

 

いや、待てよ。そもそもポリアモリーって、昔から男性にとってはよくあることだったんじゃないか?奥さんがいても不倫していたり、女遊びがやめられない!それが許容されていた時代もあったくらいだし、そういった恋愛に哲学的な意味があったのかといえばそうじゃない、単にヤリたかっただけ。なのに女性が同じことをしたら大罪になっていた。え?じゃあポリアモリーはそういった男女差別をなくす言葉でもあるの??

 

本書を読んでいると、考えれば考えるほどよくわからなくなっていきます。正しい恋愛ってなんなんでしょうね。そこら辺をあやめと付き合うことになった圭吾はもっともっと深いところまで悩んでいくのです。

 

本書のポイントは、圭吾自身が色んな性質の人がいて、相手を尊重したいと思う一方で、それを受け入れたいと思いながらもどうしても受け入れられず苦しんでいるところです。頭では理解したいと思っていても、自分の心が追いつかないんですね。そこに精一杯悩み、未熟な価値観を育てようともがいている姿はとても健気に映ります。

 

一方で、あやめの本音はどうなのでしょう。ここは私にもわかりませんでした。圭吾の葛藤を知りながらも、それについてどうこうはありません。あやめはパートナーに他に恋人ができると嫉妬もするし、むしろそのさびしさを圭吾で埋めている部分も否定していません。そのせいかずっと圭吾が片想いしているような恋愛なんですよね。こうして見ると、ポリアモリーとモノアモリーの恋愛は難しいよな、と思います。別にあやめが悪いというわけではないのですが、圭吾が葛藤している限りは、片方が一方的に無理をしているだけですからね。これでは関係が成り立たなくなってしまいます。

 

ん~~

 

問題は、その人が好きなのか、単に性欲だけなのか、というところまでにも広がっていき、とにかく恋愛って何?好きって何?とどんどんわからなくなっていきます。

 

考えすぎると真剣に恋愛ができない

 

そんなことがよーく現れている一冊というのは確か。

 

結局、あやめも圭吾も臆病なのだろうな、という感想でした。

 

前半はきつめのレビューになってしまいましたが、最後まで読むと不思議な読後感を味わえます。

 

恋がしづらいという人は、もしかすると自分が傷つきたくないというよりは、誰かを傷つけたくないからなのかもしれません。

 

ちなみにポリアモリーがいれば、恋愛感情を抱かない人もいます。

 

 

実は世の中が「普通」と思っている恋愛をしている人のほうが少なかったりね。なんて。

 

恋愛とは、とてもプライベートなことなので、実際は”人に言えない”恋愛のほうがスタンダードだったなんて言われる日が来るのかもしれません。

 

以上。「きみだからさびしい」のレビューでした!