罪を犯したら償わなければならない。償うとはつまり、牢屋に入り、罪と向き合うことだ。本当にそうか?本当にそれが償いか?人は刑務所に入れば自動的に更生するものなのか?
本書は「死刑は無力だ」をテーマにした重い作品になります。
<あらすじ>
ペット葬儀屋を営む中原道正のもとを、警視庁の刑事が訪ねてきた。佐山というその刑事は、中原とは旧知である。佐山は、中原の前妻・小夜子が何者かに路上で殺されたことを告げた。中原は、思わず「離婚していなければ、私はまた遺族になるところだった」と口にする。中原と小夜子には、かつて、幼い娘を殺されるというつらい経験があった。佐山は、その事件の時も捜査担当だったのだ──。
幼い娘の命を強盗に奪われた中原夫婦。犯人はすぐに捕まり、死刑判決を受けたものの、「生きていくことが面倒になったし、どうせ人間はいつか死ぬのだから、その日を誰かが決めてくれるのなら死刑も悪くない」と言い放ち、この世を去ってしまいます。
裁判後も心に暗いものを抱えたままのふたりは、互いを支える余裕もなく離婚。それから時は流れ、ようやく歩き出そうとした中原道正のもとに、今度は前妻の小夜子が何者かに刺殺されたという連絡が入ります。しかも犯人は自首し、被害者に対する謝罪の言葉を口にしているというのです。
孫と娘を立て続けに亡くした小夜子の両親は、法律では無理だとわかっていても、どうしても犯人を死刑にしたいと憤慨します。そう思うのには、犯人の義理の息子までが謝罪の手紙を送ってきたことが大きく影響しています。おそらくこの義理の息子やらが情状証人として出廷し、酌量を求めるつもりなのだろうと、警戒しているのですね。
そんな中、小夜子のパソコンから『死刑廃止論という名の暴力』という書きかけの原稿が見つかります。小夜子は離婚後、ライターとして活動していたのですが、どうやら本を出版する予定だったらしく、原稿以外にも死刑や量刑に関する多くの資料が残されていました。
小夜子の両親も、道正も、実際は死刑で何も救われないことを知っています。死刑のむなしさを心の底から知っています。それでも死刑を求めるのは、たとえ叶わなくても、「法廷に死刑という言葉を響かせたい」からです。遺族からしてみれば犯人の死など償いになりません。それは単に悲しみを乗り越えるための通過点にしかなりません。けれども、「死刑」がなければそこを通過すらできないのです。
小夜子は生前、娘を殺した犯人が仮釈放中の身だったことからも、『娘を殺したのは犯人だが、彼を生かし、再び社会に戻したのは国だ』と手記に綴っていました。
実は小夜子、『更生も反省もできないのなら、更生しないことを前提に刑罰を与えるべき』とも言っているんですよね。死刑のメリットは、その犯人にもう誰も殺されないということだ、とも。これは遺族からしたら当然のことですよね。ただ、死刑を刑罰とは捉えない、自分の運命の行方としか考えられない人間がいるのも事実。執行までのあいだ良い暮らしをしていたり、懲役が長いからといって反省や謝罪をするわけでもない。やはり死刑は無力なのでは―
私が死刑に疑問を感じるのは、それでは何も解決しないと思うからです。Aという事件があり、犯人が死刑になった。Bという事件があり、こっちも死刑になった。事件は全く別物で、遺族の顔ぶれも違うのに、結論は死刑という一言で片付けられてしまいます。私は、それぞれの事件には、それぞれにふさわしい結末があるべきだと思うのです。(P139)
正直、私も答えがありませんが、今のところこの考えがしっくりきますね。個人的には加害者の罪を軽くするよりも、再犯を防ぐために何ができるか、のほうが大事なことに思えます。
小説やドラマをみていると、人殺しをするヤツなんて、いかにもな人間なんだろうと思いがちですが、実際はどこにでもいそうな普通の人間が殺人犯だったりするのではないでしょうか。自分は違うと信じている人も、いつ犯罪者になるかなんてわかりません。絶対などないですからね。
「なぜあの人が」というような立派な人でもブレーキがきかなければやってしまう。その理由には情けがあるかもしれませんが、最も大事なのは刑を軽くすることではなく、加害者が二度と同じことを繰り返さないためには何をどうすべきかを事件の背景から考えることだと思います。(薬物中毒者に必要なのがシャバに帰すことではなく治療であるように)
話は戻って、小夜子は亡くなる数年前から社会問題を記事にするようになっていました。特に熱心だったのが万引き依存症の人への取材。小夜子も犯罪に手を染める側の心理に迫るようになっていたことがわかります。
何人かに取材したなかで、とりわけ小夜子が気にしていたのがイグチサオリという女性でした。サオリは過去のある出来事から「自分は生きている価値のない人間」だと思うようになり、そんな自分にふさわしい生き方として、万引きしたものを食べたり、ダメ男と付き合ったりしていました。
過去のある出来事というのが、犯罪を指しているのですが、サオリは長年罪を隠しているかわりに自分を痛めつけて生きています。小夜子はそんな生き方をしていてはダメだ、きちんと自首をして償おうと説得するのですが・・・・
ここでまた「償う」とは何だ?と、読者に疑問が浮かぶわけです。
刑務所に入るだけで形式的に償ったことになるのか。だからといって自分を痛めつけることが償いなのか。どちらも償いにならないのではないか。タイトルの「虚ろな十字架」という言葉がじわじわと胸に浸透してきます。
本書にはもうひとり過去に罪を犯した人物が登場します。彼もまた十字架を背負い続けて生きてきました。彼は過去に人を殺したかわりに、現在は多くの人の命を救うことを贖罪としています。私にはこれが償いなのかわかりませんでした。しかし、彼に助けられた人たちは彼を失うことを怖がります。
刑務所に入れられながらも反省しない人間など、いくらでもいます。そんな人間が背負う十字架なんか、虚ろなものかもしれません。でも主人が背負ってきた十字架は、決してそんなものじゃない。重い、重い、とても重い十字架です。中原さん、かつてお子様を殺された御遺族としてお答えください。ただ刑務所で過ごすのと、主人のような生き方と、どちらのほうが真の償いだと思いますか(P306)
きちんと罪と向き合ってこなかったから、自分のことも大切にできないのよ。(P308)
んー、最終的には「死刑」だけでなく、「刑罰」の矛盾に目がいく作品になっています。そして結局なにが「償い」になるのかについてですが、”一度犯した罪を償うことは最初から不可能としかいいようがない”ですね。だからこそ罪なのでしょう。
この手のテーマを扱った小説はたくさんありますが、本書は最後まで物語冒頭の内容が見えてこなくて、そこが面白さ(といっていいのか)のポイントですね。ただ、東野圭吾さんの作品としては普通。表題や展開にはさすがのセンスを感じますが、東野さん自身も読者に考えを委ねるというよりは、迷ったまま書かれた感じのする一冊でした。
日本は加害者に優しい国といわれるように、私も加害者の背景にあるものをみて、どちらかというと同情しがちなところがあるので、今回は小夜子のような人物が出てくる小説をあえて読むことでバランスを取れてよかったです。
かといって何がどう思うと聞かれても、難しいですけどね。
以上、「虚ろな十字架」のレビューでした!
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