画像のような水しぶきの状態をウォータークラウンというそうです。確かにかんむりみたいですね。

 

「私のかんむりはどこにあるの」

 

タイトルとあらすじにあった台詞の意味が気になり読んでみることにしました。

 

 

<こんな物語>

本書は長年連れ添った夫婦の学生時代から年老いるまでを描いた長編になります。

 

主人公の光と虎治は中学三年の頃に付き合い、一度虎治の転校で別れたものの、成人後に再会してからよりを戻し、結婚しました。やがて息子の新が誕生し、親になったふたりは、時に色々な壁にぶつかりながらも幸せな家庭を築くため、互いを気遣いながら努力している・・・・つもりでした。

 

学生時代から口数の少ない虎治でしたが、結婚後ますます無口になった夫に、光は違和感を覚えるようになりました。それだけならまだしも、新が生まれ、育児のことで話し合う場面で、些細な意見の食い違いがあるとすぐに黙ってしまう夫にイラつくようにもなりました。

 

虎治は息子に「強く」あることを望んでいました。男はそうでないと社会では生きていけないと。男の子はスポーツが得意でなければ馬鹿にされる、友達にやられたら逃げるのではなくやり返すようでなければならない。とにかく「弱い」人間になってはいけないと言います。

 

一方、光は両親のどちらにも性格が似ていない息子に対し、親の信じる生き方を押し付ける虎治の教育に疑問を抱いていました。新が習っていたスイミングを上級生とのいざこざで辞めたいと言った時も、お料理教室に通いたいと言った時も、新の訴えをすべて却下する虎治。光は夫の意見には同意できず、「本人の好きなことをすればいいのでは」と思っていました。

 

何かを途中で辞めることを「逃げ」と判断する夫、そうは思えない妻。ふたりの意見はその後あらゆる場面でぶつかるようになり、微妙な距離が出来てしまいます。

 

実は最初の言い合いの際、光は「強さ」にこだわる虎治の生き方に危うさを感じていました。女性と同様に男性も「男らしく」生きることを求められていること、自分たちは無意識に性のイメージに沿って役割をこなしていること、そのプレッシャーは分かっているのですが、虎治はそこに拘り過ぎているのではないかという怖さがありました。

 

確かに虎治の人生は男らしく強くあらねば苦労したのかもしれません。しかし、光から見た新は名の通り新しい時代の人間で、父親が望むような生き方をしなくとも、しっかりと楽しんで我が道を進んでいるように見えていました。

 

虎治の「強さ」への執着は年齢とともに悪化し、やがて光は夫に失望するようになり―

 

 

<感想>

本書はふたりが出会ってから衝突した時期と互いを大切に思っていた時期を交互に描いた構成になっています。大切に思っていた時期というのは、決して結婚前だけというわけでなく、夫婦になってから現在まで続く中で相手のことを愛おしい存在だと思った瞬間も含まれています。

 

光から見た虎治は、特に父親になってからの虎治は、「強い」どころか守ってあげないと壊れてしまうような夫に映っていたと思います。強い人間であろうとすればするほど苦しくなっていく虎治と、母親になってどんどん忍耐強くなっていく光。人には「強くなくていいよ」と言いながら、光はひとりで何でも解決できる女になっていくほど虎治の「弱さ」が目につき、嫌気がさしてしまうのでした。

 

皮肉なことに、夫が虚勢を張るほど妻には弱々しく、どうしようもない男に見えてしまう・・・。

 

虎治は働く妻を、家事をこなす妻を、育児をこなす妻を見て、「なんてタフな人なのだろう」と言います。しかし光はそう言われるのが嫌でたまりません。光がひとりで頑張らなければならないのは、強さと闘う脆い夫には何も任せられないと思っているからです。

 

毎日青白い顔で帰って来る夫を見れば、リストラされた夫を前にすれば、彼が日頃から語っている「男らしさ」を失ったことに絶望してしまわぬよう気を遣い、自分事以外の負担を減らしてあげようとしました。しかし、そんなことをしているうちに、今度は強くなってしまった光自身が自分の人生を歩めていないことに絶望するようになります。

 

虎治がこんなんじゃなければ私も家庭のことを気にせず仕事ができたのに。大事なチャンスを逃すこともなかったのに。かつての仕事仲間はあんなに成功しているのに私だけ・・・

 

このように光がモヤモヤしだすと、夫婦のポジティブな記憶を描いた場面に変わります。それが全部素敵なエピソードで、他人のエピソードなのに懐かしくてほっこりして、心に響いてくるんですよね。

 

本書はある夫婦の出会いから一生までを描いた物語なので、先を行くほど私にはわからない部分も多いし、こんなものなのかな?という想像で読んでいるページがほとんどでしたが、時には相手を憎み、慈しみ、それでも最後までこの関係を壊さぬようにと生きていく静かな時間が妙に心地良かったです。

 

また、夫婦ってどこもこんなもんでしょ。妻は夫にイラつき、夫は夫で口うるさい妻がウザい。そんな感覚で読むとちょっと予想外な展開の本になると思います。光のいいところは、多くの世の人生クレーマーたちが嘆くような愚痴とは違って、あくまでも自分の中の葛藤として、感情に支配されずに考えるところですね。苛立ちというオーバーな表現で物語を読ませるのではなく、いつも正面には相手への配慮の気持ちがあるところがいいなと思いました。

 

また、20代、30代、40代、50代、60代、70代、当たり前ですが、すべての時代で夫婦のかたちは違うんですよね。途中からは夫婦というより、結局は人間同士の成長譚とわかって、でもそれはまだ息子の新にはわからず、あくまで新にとって親はずっと親のままで、息子には虎治と光の長い歴史は「古い価値観」としか認識されていない結末が妙にリアルでした。

 

まー、実際そんなものなんですよね。子どもからすれば両親の仲が微妙だった時期やちょっと面倒くさい性格の父親のことなんて、その通りにしか受け取れなかったでしょうし、理解するには難しかったと思います。虎治と光が人生の終わりに自分たちなりの答えを見つけたのと同じで、新もそれを知るのはまだまだ先でいいし、あまり人生を達観しすぎると虚しくなるだけですよね。

 

 

「なんで母さんはろくに会話もできない相手とずっと一緒にいんの?」

 

「そんなこと言ったって」

 

薄い既視感があった。私もそんな風に、愚かで不条理なものを見るまなざしを親に向けたことがあった。いくら思考や対話を研ぎ澄ませても処理できないエラーがある、自分の中にだってそれは生じると、まだ知らなかった頃のまなざし。

 

「母さんは自分は関係ないみたいな態度をとりながら、結局親父の言うことを信じてるんだよな。いまだに国産の商品が一番とか平気で言うし」

 

(略)

 

私が国産の商品に愛着を持っているのは事実で、それはこだわりというよりも、目まぐるしく変わっていく世界や社会の情勢を把握しきれない、という理由が大きい。国産が一番だった、という時代の意識が抜けない。年をとればとるほど、物事をわかりやすく大別してはっきりと言い切ってくれる芸能人や作家が好きになった。はっきりと、できれば私たちは間違ってなかったと、優しく褒めてくれる人の方がいい。新の目から、私に対する信頼が消えていくのはわかっていた。でもどうしようもなかった。(P226~227)

 

 

いつかわが身にも訪れるコレを意識しながら未来を生きるより、現在を真っ直ぐ生きた方が人生にも味がでそうな気がします。

 

光は自分の人生の「かんむり」になる出来事を探していました。「かんむり」となる称号を欲していました。けれども、この物語を読めばそれが何を示しているのかわかるほど、もっといえば、あえて「かんむり」というテーマを提示されなくても、読者には作者の書きたいものが伝わってくる小説だったので、タイトル必要なくね?という異例の作品でした。

 

強さのために無理をするよりも、助け合って、もう少し気楽に生きていこう。

 

きっと弱さで苦労した人は強くなければならないと思い込んでしまう。弱いことで人を傷つけることもあると知る。でも人間弱いところばかりで構成されているわけでなく、強弱は一体であると思う。

 

そんなことを教えてくれる夫婦の物語でした。

 

 

 

 

虎治の生い立ちを知ると悲しいです。多様性というものを優しさと人間臭さで書いたオススメの一冊。ぜひ読んでみてください。