チェルミー図書ファイル127

 

 

2020年本屋大賞受賞作品『流浪の月』は、出版界や読書家たちをザワつかせた。

 

それもそうだろう。小児性愛者の大学生に誘拐された九歳女児、しかも加害者と被害者は共依存関係になるというストーリーなのだから驚くのも無理はない。しかも作家は凪良ゆうという一般文芸では馴染みのなかった人物だ。

 

本屋大賞といえば、本が売れない時代に「売り場からベストセラーをつくろう」という意図から始まった書店員が売りたい本のこと―つまり全国の書店の書店員による投票で大賞作品が決まる。

 

そこで私は思う。なぜ書店員たちは『流浪の月』を選び、読者から絶大な人気を得たのだろうか。

 

受賞から時が経ち、多くの人がこの作品を読んだであろう今回は、多少のネタバレを含みつつ『流浪の月』が読まれた理由を考察したいと思う。

 

 

 

予測できない展開

まず私はネットでこの本の感想を書いているブログを検索してみた。すると、当たり前だが賛否両論だった。まずは好きという人の意見から見ていくと、「予測できない展開に最後までワクワクした」「読みだしたら止まらなかった」というものが多かった。次に好みではないという人の意見を見ると、「自分にはあわなかった」「読むのが辛い」というストーリー自体への拒否感を訴えるものが多かった。

 

人気を得た理由として言えるのは、斬新なストーリー構成と一度読んだら忘れられないようなカワイソウな二人の主人公、といったところか。このカワイソウな部分に共感するか、しないか。このカワイソウな部分が自分とは遠すぎて、興味をそそる(=続きが気になる)のか、逆に近すぎて嫌悪感を刺激するのか。

 

何はともあれ時代を象徴している作品だというのは間違いないだろう。これは予測できない物語というよりは、いつか誰かが書くであろう内容が詰め込まれた作品なのだ。

 

 

閉塞感

最近多いのが世の中の閉塞感を嘆いた作品だ。この『流浪の月』でも「事実は真実と同じではない」という決まり文句があるように、主観と客観の食い違いに絶望する様子や世間と共存できない人の苦しみを描いている。特に著者の年齢が低下するほどに、登場人物たちが抱く世の中への閉塞感や諦めは強くなる傾向にあるようだ。そして私自身もより年齢の近い作家の作品に共感してしまうところがある。
 
閉塞感を嘆くといっても、そのような作品は過去にもたくさんあると思うだろう。しかし、ここで言う閉塞感とは、決して反発しない現状維持を貫く閉塞感のことなのだ。家族、友人、恋愛から距離を置き、不安定でいつ裏切られるかわからない社会の中で、これ以上生きづらくならないように守りに入る。なぜなら最初から何も求めないことこそが安全だからだ。
 
この閉塞感というのは二種類ある。社会的な閉塞感と個人的な閉塞感だ。若手作家の小説を読んでいて思うのは、個人的な閉塞感を訴えながらも実は社会的な閉塞感につながっているということだ。一方、『流浪の月』からは社会的な閉塞感を書いているようで、個人的な閉塞感が強く表現されているように思えた。そういう意味では、私自身この本のテーマを少し遠く感じてしまったし、どこかドラマ的な要素を感じながら理解しようとしていた部分もあった。
 
 

小児性愛者

ロリコンの大学生が小学生を誘拐する―もし文が最後までロリコンの設定で、本当にいたずら目的で罪を犯していたらこの物語は破綻してしまう。実際のロリコン大学生、文の正体は偏見に満ちた世界で孤独に生きる若者だったのだ。
 
文は第二次性徴期が来ない病気のせいで心を病んでいく。やがて周囲と同じように成長できない自分への焦りから、世間と距離を置くようになっていった。本来ならすぐにでも親に相談し、医療機関に行くべきだったのだが、文の母は普通から外れることに敏感な人だった。そんな脆い母に自分の身体に起きていることを打ち明けることができなかった文は、少女に救いを求めようとする。
 
一生恋愛ができない、人並みの人生を送れない、そんな不安の捌け口から少女なら愛せるのではないかと思った文。しかし、成長しないのは肉体だけで、子どもに恋愛感情など持てなかった。
 
文がもし本当の小児性愛者だったとしたら、世間でのこの本の評価は変わっていたのだろうか。実は私が気になる点はそこなのだ。「文のような害のないロリコンは許せるが、そうでないのは消えてほしい」と言うのだろうか。それとも「自分の異常さに悩む主人公がテーマなのだから、内容がどうであっても評価する点は同じだ」と揺るがないのだろうか。
 
私が想像するに、世間は口で言うほどそんなに理解はないと思う。
 
”許容範囲である変わり者”に対しての理解はそこそこあるのだろうが、これが小児性愛者で犯罪者であったのなら全力で社会から抹殺する勢いなのではないか。もちろん差別だ偏見だという言葉に敏感な私だって彼らの存在はおそろしい。
 
他者への理解とはそれほど難しいものである。だからこそ単純にカワイソウとも思えないのだ。
 
 

社会で・・

本書を読んでいるとき、私の頭の中にはずっとある事件がチラついていた。それは2019年に起きた元農水事務次官長男殺害事件だ。元官僚の父親が引きこもりで家庭内暴力をふるう息子を殺害した、あの事件だ。変な話、文が社会から弾かれる原因がロリコンでなく、引きこもりといった設定でも”世間の冷たい視線”というものは表現できる。そして私たちは様々な事件からこれは気の毒で、これは気の毒ではないと勝手に振り分けているのだ。実際にこの事件後から”子供部屋おじさん”という言葉が使われるようになったが、私はそれを非常に残念に思う。
 
また、それと同様に2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件も思い出していた。文がいっそのこと楽になってしまいたいと犯行に及んだとき、その姿が加藤と重なってしまったのだ。幸い文はロリコンではなく、被害者を傷つけることはなかったが、一歩間違えれば文だって重罪を犯していたのだと思うとおそろしい。
 
小説だからカワイソウで、実在の事件なら許せないというわけにはいかない。私たちは否定と肯定とまではいかない共感を繰り返しながら、社会で生きづらさを感じている人たちが孤立しないように、被害者をつくらないように意識を持つ必要がある。
 
それはとても難しい。口では社会から外れた人に理解あるふうなことを言っている人だって、気づかぬところでは偏見に満ちているものだ。夕食がアイスクリームで母親が浮世離れしている家庭で育った被害者女児の更紗のことだって、私たちはリアルでは「おかしな子」とレッテルを貼り、何とか標準に寄せようとするだろう。
 
誤解しないでほしいのが、私は決して犯罪者擁護をしたいのではなく、そういった人をつくりやすい世の中に対しての危うさをこの本から感じたことを伝えたいのだ。
 
当事者以外には理解してもらえない真実というのは、この世界にごまんとあるのだろう。
 
そんなとき、一人でも理解者がいてくれるなら、それだけで生きやすくなる。
 
こんなに悪い奴らしか登場しないストーリーにはリアリティがないという意見もあるが、こういう家庭を多く見てきた私にとっては、2019年本屋大賞受賞作の『そして、バトンは渡された』を読んだときの方が、リアルな世界にはない優しさいっぱいの作風に心救われたのであった。いや、単に私がそういう世界を知らないだけなのかもしれないけれど。
 
 
『流浪の月』が好まれたのは、日本人の多くが何となく抱いている違和感を小説で代弁してくれたのが心地良かったからだろう。しかし、疎外感や閉塞感や孤独感、こういったネガティブな感情に共感したり、そのような文学に救われる世の中よりも、明るくポジティブなものに堂々と惹かれるような世の中になってほしい。
 
 

【総評】

★★★★☆

途中までは星三つ。ラストにかけてストーリーにスピード感が出たので星四つ。どう考えてもマトモではない更紗の両親ではあるが、私の経験からいっても子どもがそれを幸せだと思っている限り、他人には邪魔をする権利はない。むしろ下手に助けてあげようとする”善意”の方が相手を傷つける点が上手く表現されていて良かった。星が一つ足りないのは、中盤に少しテンポが落ちたから。また、文の実家が裕福でなければ、ハッピーエンドには至らなかったと思うと、何とも言えない気持ちになった。

 

 

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