※note「オヤジの思ひ出話」の転載記事です。
オヤジの思ひ出話が80話を超えました。80という数字は、2025年の今年、大変意味深いものがあります。太平洋戦争終結から80年目の大きな節目に当たるからです。
オヤジの思ひ出話で、原爆被災地を訪れた旅の思い出を書かせてもらおうと思い、先週の「広島」に続き、今週は「長崎」をテーマとします。
第81話「長崎の地で見たもの」です。

8月9日は長崎に原爆が投下された日です。
長崎には1998年に訪れました。あれから27年が経ちましたが、長崎の原爆被災地で見た様々な史跡は今も忘れられません。
浦上天主堂は、キリシタン弾圧に耐え抜いた人々が一つずつレンガを積み上げて作ったという聖堂です。被ばく80年の今年、原爆で失われた鐘が復元されたというニュースも耳にしました。
その入り口にあった「首のない天使像」には衝撃を受けました。他の二つの像の横に立っている像は、原爆の恐ろしさをダイレクトに伝える遺構で、さりげなく残されているからこそインパクトは強烈です。
式典が開催された平和公園にも足を運びました。中央にそびえ立つ平和祈念像は、彫刻家の北村西望氏が制作したもので、垂直に掲げる右手は原爆の脅威、水平に掲げる左手は平和を表しているそうです。
水を求めながら亡くなった被爆者たちの霊をなぐさめるために作られた「平和の泉」には、少女の手記が刻まれた石碑があり、身につまされるような気持ちで読ませてもらいました。
そして、私が最も胸を打たれた場所があります。平和公園から少し離れたところにある掘立小屋のような建物。訪れる観光客も少ない閑静な住宅街のなかにある建物。
永井隆博士が子供と一緒に住んでいた「如己堂(にょこどう)」です。
永井博士は爆心地近くで被爆し、後に放射線障害(当時は原子病と呼んでいたそうです)で苦しみますが、生ある限りと精力的に原子病について研究し、亡くなるまでに多数の著書を残しました。
永井博士のことを知ったのは、テレビのドキュメント番組でした。番組を見た時も「こんな壮絶な生涯だった人がいたんだ」と感銘を受けたのですが、その永井博士が住んでいた家の見学がかなったのです。
永井博士の命がけの研究ぶり、そして同居していた我が子への思い、さらに原爆で命を失った妻や多くの人々への祈り・・・そうしたものが如己堂から伝わり、涙が止まりませんでした。
広島へは2度目の来訪ができましたが、長崎には再来訪が実現していません。もう一度、平和公園や浦上天主堂、そして如己堂を訪ねて、祈りを捧げたいと思いました。
★広島編もぜひ読んでください
★永井隆博士の著書です


