すごく独りよがりで、青臭い話をします。
先日、故郷の金沢での初ライブを無事に終えたボクですが、
金沢でライブを企画した理由は主に2つありました。
1つは、歌っている姿をばあちゃんにみせたかったから。
もう1つは、金沢でのボクの時間を前に進めたかったから。
2002年の夏まで、ボクは、
甲子園を目指す球児の一人でした。
小学生のとき、些細なきっかけで野球を始めたボクは、
「城東メッツ」という学童野球のチームに入り、
「県内最強チームのクリーンアップ」
という最高な野球人生のスタートを切りました。
中学の野球部では活躍することはできませんでしたが、
高校に上がるころには、
「甲子園」
という目標を掲げ、
また、高校野球の厳しさに触れ、
中学までの野球とは次元が違うことを思い知らされ、
当時のボクとしては必死に打ち込みました。
しかし、
順調にエースへの階段を登っていく幼馴染みを横目に、
ボクはというと、学年が上がっても、2年の夏が終わっても、スタメンと呼ばれることはありませんでした。
それどころか、スコアラーとしてユニフォームではなく制服を着てベンチに入ったり、
人数が足りない相撲部に助っ人として出向したりしていました。
もちろん当時は、
「チームのためにボクができることをやろう」
「これはこれでいい経験じゃないか」
と前向きに取り組むようにしていました。
ただ、
「負傷したエースがスコアラーとしてベンチいり」
とか、
「キャプテンは実は他の部も兼任」
とか、
熱闘甲子園などでたまに見る光景ですが、
そういうのとは全くニュアンスが違い、
戦力に数えられない人間が野球以外のことをやらされるのは、やはりみじめなものでした。
でも、それは別によかったんです。
過程でどんなことがあっても、
最後の夏に甲子園に行ければ。
最後の夏にバッターボックスに立てれば。
最後の夏に、ユニフォームを着てベンチに入れれば。
そんな思いで迎えた、
最後の大会メンバー発表の日。
背番号順に名前を呼ばれます。
1~9がスタメン
10~18が控えです。
9番までは名前が呼ばれず、祈るように待つボク。
16番、○○
17番、○○
ボクの名前は呼ばれません。
18番、、
○○。
本当なら、チーム一丸となって、18人以外の人間も勝利のために自分にできることをしよう。プレーは18人を信じて任せよう。
そうやって心を1つにするのが理想な場面でしょう。
でも正直なボクの気持ちは、
「一生懸命やってきた結果がこれか。」
でした。
ボクのいた高校は、部員100人を誇るわけでもなく、強豪私立でもない、とりわけ進学に特化した公立高校でした。
3年生も10数人だけでした。
この日のことは忘れられません。
今でも、ひどく落ち込んだときや、
緊張して眠った日などは、
夢に出てきます。
余談ですが、
この発表があったのは金曜日。
その次の月曜日に、ボクは生まれて初めて学校をサボりました。
渡らなければいけない川を渡らずに、海までいきました。
それがなければ皆勤賞だったような気がします(笑)
それでも、甲子園に行けば、もう一度18人を選び直す。まだ希望は残ってる。
という思いと、
このメンバーと少しでも長く野球をしていたい。という思いで、太鼓のバチを握りました。
しかし、
僕らの夏は準々決勝で幕を閉じました。

「バチに込めた最後の夏」2002年8月某日 読売新聞北陸版
それから、高校を卒業して、ボクは金沢を出ました。
本当に、他人からみたら些末な出来事、
高校の数だけ、毎年起きることですし、
「まだそんなこと言っとるんか」
と実際にも言われます。
今になって思えば、当時、ベンチ入りするためにできることはもっとあったと思うし、やはり努力が足りなかった、といえばその通りだと思います。
教師をしている友達が多い今となっては、
メンバー発表のあとに
「すまん」
と言いに来てくれた、
新聞記者の取材を
エースでも四番でもキャプテンでもなく
ボクのところに向かわせてくれた、
そんな先生の気持ちを考えると、
ボクの実力がないせいで辛い決断をさせてしまったな、
とさえ思います。
でも、なぜかボクの中で金沢では負け犬感が拭いきれないのです。
最後の夏が、終わらないのです。
思春期の魔法でしょうか。
脚光を浴びるその日まで、解けない魔法。
その魔法を解く鍵の1つに、
金沢ライブがあった。
演奏中は緊張もあり、必死だったのでわからなかったですが、
終わってみると、そんな気がします。
少しだけ、時間は前に進んだのでしょうか。
以上、独りよがりで、自分勝手で、青臭くて、子供っぽい、
ボクのハナシでした。
ご静聴ありがとうございました。
さ、明日からも頑張りましょう!
先日、故郷の金沢での初ライブを無事に終えたボクですが、
金沢でライブを企画した理由は主に2つありました。
1つは、歌っている姿をばあちゃんにみせたかったから。
もう1つは、金沢でのボクの時間を前に進めたかったから。
2002年の夏まで、ボクは、
甲子園を目指す球児の一人でした。
小学生のとき、些細なきっかけで野球を始めたボクは、
「城東メッツ」という学童野球のチームに入り、
「県内最強チームのクリーンアップ」
という最高な野球人生のスタートを切りました。
中学の野球部では活躍することはできませんでしたが、
高校に上がるころには、
「甲子園」
という目標を掲げ、
また、高校野球の厳しさに触れ、
中学までの野球とは次元が違うことを思い知らされ、
当時のボクとしては必死に打ち込みました。
しかし、
順調にエースへの階段を登っていく幼馴染みを横目に、
ボクはというと、学年が上がっても、2年の夏が終わっても、スタメンと呼ばれることはありませんでした。
それどころか、スコアラーとしてユニフォームではなく制服を着てベンチに入ったり、
人数が足りない相撲部に助っ人として出向したりしていました。
もちろん当時は、
「チームのためにボクができることをやろう」
「これはこれでいい経験じゃないか」
と前向きに取り組むようにしていました。
ただ、
「負傷したエースがスコアラーとしてベンチいり」
とか、
「キャプテンは実は他の部も兼任」
とか、
熱闘甲子園などでたまに見る光景ですが、
そういうのとは全くニュアンスが違い、
戦力に数えられない人間が野球以外のことをやらされるのは、やはりみじめなものでした。
でも、それは別によかったんです。
過程でどんなことがあっても、
最後の夏に甲子園に行ければ。
最後の夏にバッターボックスに立てれば。
最後の夏に、ユニフォームを着てベンチに入れれば。
そんな思いで迎えた、
最後の大会メンバー発表の日。
背番号順に名前を呼ばれます。
1~9がスタメン
10~18が控えです。
9番までは名前が呼ばれず、祈るように待つボク。
16番、○○
17番、○○
ボクの名前は呼ばれません。
18番、、
○○。
本当なら、チーム一丸となって、18人以外の人間も勝利のために自分にできることをしよう。プレーは18人を信じて任せよう。
そうやって心を1つにするのが理想な場面でしょう。
でも正直なボクの気持ちは、
「一生懸命やってきた結果がこれか。」
でした。
ボクのいた高校は、部員100人を誇るわけでもなく、強豪私立でもない、とりわけ進学に特化した公立高校でした。
3年生も10数人だけでした。
この日のことは忘れられません。
今でも、ひどく落ち込んだときや、
緊張して眠った日などは、
夢に出てきます。
余談ですが、
この発表があったのは金曜日。
その次の月曜日に、ボクは生まれて初めて学校をサボりました。
渡らなければいけない川を渡らずに、海までいきました。
それがなければ皆勤賞だったような気がします(笑)
それでも、甲子園に行けば、もう一度18人を選び直す。まだ希望は残ってる。
という思いと、
このメンバーと少しでも長く野球をしていたい。という思いで、太鼓のバチを握りました。
しかし、
僕らの夏は準々決勝で幕を閉じました。

「バチに込めた最後の夏」2002年8月某日 読売新聞北陸版
それから、高校を卒業して、ボクは金沢を出ました。
本当に、他人からみたら些末な出来事、
高校の数だけ、毎年起きることですし、
「まだそんなこと言っとるんか」
と実際にも言われます。
今になって思えば、当時、ベンチ入りするためにできることはもっとあったと思うし、やはり努力が足りなかった、といえばその通りだと思います。
教師をしている友達が多い今となっては、
メンバー発表のあとに
「すまん」
と言いに来てくれた、
新聞記者の取材を
エースでも四番でもキャプテンでもなく
ボクのところに向かわせてくれた、
そんな先生の気持ちを考えると、
ボクの実力がないせいで辛い決断をさせてしまったな、
とさえ思います。
でも、なぜかボクの中で金沢では負け犬感が拭いきれないのです。
最後の夏が、終わらないのです。
思春期の魔法でしょうか。
脚光を浴びるその日まで、解けない魔法。
その魔法を解く鍵の1つに、
金沢ライブがあった。
演奏中は緊張もあり、必死だったのでわからなかったですが、
終わってみると、そんな気がします。
少しだけ、時間は前に進んだのでしょうか。
以上、独りよがりで、自分勝手で、青臭くて、子供っぽい、
ボクのハナシでした。
ご静聴ありがとうございました。
さ、明日からも頑張りましょう!