今日の午後、黒澤明監督の生きるという映画をうちで観てました

ラストシーンで号泣し、涙が止まりません

でも、だからってどうして、この映画の話を魂を成長させる心理学と銘打ったブログに書いているのかというと主人公の黒の手放しが描かれていて、それが前回のブログときれいにリンクしていると感じたからです

 

(この先ネタバレします)

 

主人公のおじさんはたったひとりの家族である大事な一人息子に自分が余命いくばくもないことを打ち明けて、おそらく自分に寄り添ってもらいたかったんですが、病気のことを打ち明けようとする矢先にお金のことで息子に一方的に怒られて落胆します

前回のブログの”愛する家族がいるから幸せ”という思い込みが崩れる瞬間です

これがどうして思い込みかというと他人に依存した幸せだからです

愛する家族がいるから幸せだとしたら、その愛する家族がいなくなったら幸せではなくなるわけです

もちろんこの物理的な世界しか見えていない人間は愛する家族を失ってまで幸せでいたいなんて思えないので、人間の幸せは愛する家族がいることだとほとんどのひとが思い込んでいます

ただしこの次元の幸せは、自分自身が幸せかどうかは自分以外の他者である家族次第ということになります

もちろんこれも幸せのひとつではあるでしょうが、永遠の幸せではありません

あくまで人間の幸せにはなるかもしれないけど、魂の幸せではないという意味です

いつか失うかもしれない、いつか壊れてしまうかもしれない、不確定な幸せだからです

人間の意識は死とともに消えますが、ずっと存在し続けていく魂は今生限りの不確定な幸せではなく永遠に続く本物の幸せを願っています

その幸せは自分の内側にあって、自分の男性性(思考)と女性性(ハート)がつながり、うちなる宇宙が調和したときに得る幸せからはじまり、そこから成長とともに培われていくもので、誰にも奪われないし、誰にも壊されることがありません

永遠に続く幸せというのは誰かに与えられるものではなくて、自分で自分を幸せにするものなんです

主人公のおじさんは自分の息子に依存することをやめて、地域のひとのために自分の残りの人生を費やそうとします

それが自分の喜びになると気づいたからだと思います

つまり、息子への依存や、息子に対して自分にこう接して欲しいというコントロールを手放したんです

さらに、市民のために奔走するようになったおじさんは『自分にはひとを憎んでいる暇なんてない』ときっぱり言い切ります

そういう、家族以外の他者への黒をも手放して、自分が願うことのみに忠実になったんです

 

おじさんのお通夜にひとりの警察官がお焼香にやってきて告白します

おじさんはなくなる前、公園でブランコに乗って歌を歌っていたんです

それがあまりに幸せそうだった、と

ここで号泣し、ここから最後までもう涙が止まりません

市民のために自分が人生の最期をかけて作った公園で、日中、子供達があそぶ様子を公園が見渡せる橋の上からおじさんが眺めているシーンがありました

誰かが自分を幸せにしてくれる期待を手放し、自分の心に従った結果、多くのひとびとを笑顔にすることができたわけです

きっと満足だったと思います

だから雪の降る夜の公園で、ひとり幸せに浸りながら歌を歌っていたんだと思います

そして、わたしがこんなに泣いてしまうのは(これを書きながらもずっと泣いているんですが)それが魂の望みだからだと思います

他人に依存すること、他人をコントロールすること、そういう黒を手放し、自分に向き合うこと

自分が自分を幸せにできるんだということ

それこそがほんとうの幸せなんだということ

どんな人生を歩んでいようとも、最期の瞬間まで自分に向き合うことはできるということ

そういうところに琴線が触れて感動させられるんだと思います

 

そしてここからは余談なんですが、この映画のラストシーンを観ていると、亡くなったわたしの父が、生前、自分の家で幸せそうな顔をして居眠りしていたときの顔が思い出されたりします

認知症になって怒りっぽくなって自分でトイレにも行けなくなって服を着替えるだけで1時間も2時間もかかるようになり、いろんなことをどんどん忘れて、何が何だかよくわからないような意識の中にいる父をどうしてあげたら幸せにできるのかと毎日考えてました

でも、父自身が自分の城だと言うその家で、幸せそうに眠る父を見て、あ、もう父はすでに幸せなんだ、自分の城で毎日をすごしていられることがもう幸せだったんだ、と気づきました

それで安心もしたし、娘に求めることなくとっくに自分で自分を幸せにしていた父を、どうしたら幸せにできるかなんて考えていた自分の傲慢さにも気づきました

 

またこの映画は、余命宣告されたひとの話という、ストーリーとしてはありふれた設定なんですが、とにかくただの老いぼれたおじさんに魅せられる仕掛けがあるところもおもしろいんですね

トルストイの原作を知らないから、小説がそういうあらすじだったのか、この映画のシナリオがそうアレンジされていたのかわからないけど、切り取り方がこの誰にも見向きされないような老いぼれたおじさんの人生を魅せるんです

だいたい映画をみてるとストーリーって見えてきますよね

余命いくばくもない命だと知って、最期をどう生きるか見せてくるんだろうな、と思っているから映画のラストシーンが主人公の死だと思っていると、映画の半分くらいで突然主人公が死ぬんです

あれ?もうラストシーンなの?と思って思わず時計を見たらまだあと1時間とかあるんです

ここからどんどんこのおじさんに魅せられていきます

なんかもうお父さんに見えてくるというか

わたしの父に似ているわけではないんですけど、だいたいこんなシルエットですよね、年配の男性って

だからちょっと猫背のシルエットとか表情とか全体的に漂う哀愁に父を見ているようで「お父さん」と思ってしまうというか

それまであまり積極的に近づきたいとは思えない老いぼれたおじさんだったのに”死んだひと”になってしまったら急にお父さんとかおじいちゃんとか思わず呼んでしまうような、自分の亡くなった家族みたいに思えてきて感情移入してしまうんです

観ているひとみんながわたしにみたいに感じるとは限らないけど、ストーリーの半分で主人公を死んだひとにしてしまうことにはやっぱりなんらかの意図を感じさせられます

すごい映画だなあと思いました

 

 

 

 

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