バーソ様、ヨシュアさんへの記事へコメントと応答。


返事が長いので、記事で応答いたします。

バーソ様から頂いたコメント。

毎回じつに興味深い考察で、読むのが楽しみです。感想を書き込もうかどうか、ずーっと逡巡していたのですが、反応があったほうがいいかなと思い、気になった点だけを書かせていただこうと思います。むろん、お答えはけっこうですのでね。

1.しかし、それによってエバより生まれ、その子孫より生まれ継いできた人類は罪を負ってうまれてきた。
 第一の完全な人間による「原罪」があったので、第二の完全な人間による「贖い」によって「原罪」が相殺されたというローマ書の論議は一見、論理的のようですが、(肉体的な欠陥ではなく)倫理的な罪が子々孫々にまで遺伝のように伝わるというのが私は解せないのです(以前は従順に信じていたのですが)。
 なぜなら、エゼキエル18:20,21に「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」とある通り、現代の法律でも親の罪を子が負うことはないからです。
 しかも原罪が本当なら神はじつに意地悪になりますが、出エジプト記 34:7には「幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」とある通り、ここでは「慈しみ」のほうがはるかに多く、罪の報いのほうは、」精々「子、孫に三代、四代まで」と限定されていますね。

2.聖霊は女性的な性質がある。聖霊は受胎に関与した。
 この根拠は、マリアが聖霊によって身ごもったからだということですね。
 そうなら、マリアは女性ですから、女性を身ごもらせたのは当然、男性ではないですか。女性が女性を身ごもらせるのは不可能です。つまり聖霊の特性をあえて男女に分けるなら、聖霊はむしろ男性の特質を持っているのではないですか。
 聖書が母を敬えと言っているのは確かですが、だからと言って「聖霊」が母だとは、ルカ12章や申命記5章、マルコ7章の聖句に結ぶ付けて根拠にするのは、ちょっと論理が飛躍しているように思いました。
 マタイ12:50「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」は、まず「わたし=イエス」とその「兄弟と姉妹と母」が含まれていて、これを「母」だけに限定して適用するのはちょっと無理があるように思いました。だからでしょうか、「母なのである!」は小さなフォントで書いています。
 そしてマタイ3:11「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」は、強引に男女別に区分けして解釈すれば、「その方(神=男性)」は「聖霊と火」を用いて洗礼をお授けになるわけですから、その方(男性)が用いる「聖霊と火」は比喩的には「精子」のようなものではないですか(火はもちろん比喩でしょうが、物理的には無性です)。
 だから「聖霊を冒涜する者は」、(母というよりは)いわば神自身を冒涜するようなものなので赦されないと考えることはできませんか。

 まあ、そのあとの聖句「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」は、もし神に「母」がいるのなら、この聖句は根拠になると思いますが。
 三位一体論はこういう時に便利になりますね。しかし聖書にはイエスは独り子だとは書かれていますが、聖霊を母だとする聖句はないというより、イエス以前もイエス以降もイスラエル人の中にはそういう概念は皆無のはずで、むしろそんなことを言えば神への冒涜になるように思うのですが、どうでしょう。

3.第2のアダムであるなら、第2のエバが存在してもおかしくない
 なるほど、考えたこともなかったです。面白いですね。第二のアダムがイエスなら、確かに第二のエバはマリアになりそうです。
 ただ、「贖い」にマリア自身が関わったという記述はないですが、実際にどう関わったのでしょうかね。処女だった時に自分では意図せずに関わらせられたことはありますが、それだけのはずです。
 ちなみにイエスは妻を持っていて、それはマグダラのマリアだったという説が外典「フィリポの野福音書」などにあります。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でイエスの左側にいる女性(一般にはヨハネとされていますが、顔は女性ですし、当時の男に必須のヒゲがありません)は、「イエスが愛していた弟子」つまりマグマリアだろうと私は思っています。



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管理人代理です。

お返事を、おまたせして申し訳なかったです。
お待ちいただいて、ありがとうございました。

原罪になんらかの事由により、
遺伝的要素があることは、過去の教父達も感じていて、原罪を最初に犯した女性を、男性より劣った存在のように思い、、ユダヤ教では、特に顕著に女性と子供は冷遇されてました。

テモテへの手紙一 2:14 新共同訳
14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。 

アダムとエバ、
エバは最初から蛇に騙されました。
アダムは?だまされてなかったと聖書に記録されました。

アダムは、エバがだまされて、
死んでしまうから、気が動転して
彼女と一緒に死ぬ覚悟で原罪を犯しました。

彼女を失うくらいならいっそ、、と
神様の言葉に従うより彼女の言葉に従ったのでした。
けれど、エバへの愛情ゆえの、共に死んでも良いという命がけの離反でした。

ほんの少しの時間でしたが、アダムは無原罪のままでした。
この時に、気を動転させずに神様に祈り聴くことをアダムがしていたら、

神様は、無原罪のままのアダムに、エバのための贖いの儀式をして、エバの罪を贖い、罪を赦されて、ふたりは無原罪の子孫をふやすことができたでしょうに。


アダムは神様よりも
妻のエバを選んだのです。
命がけの愛でしたけれど、神様に背き
悪魔と繋がったことで霊的に死んで。

真実の愛から離れ、神様から罪を糾弾された時に罪の責任逃れをしています。

聖書には簡単な記録しかないですが、。
アダムとイブの生涯(ספר אדם וחוה)という聖書外典の中では、

アダムが罪の謝罪のためにエバと60数日、水に浸って苦行しようとして、サタンが天使に化けて、神様が憐れまれゆるされたから水から上がりアダムの元へ行くよう嘘をついて、また騙した。という話も載っていて

上で書いた通り
アダムが無原罪のままで有れば
何某かの贖いの儀式をアダムは神様から指示を受けて行うことが出来たでしょう。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/vita.html

アダムとイブの生涯は、
ユダヤ教の外典だそうですが、

抜粋します。

25
 今度はわたしの方に向きなおって主がわたしに言われる。『そなたはヘビのいうことに耳を傾け、わしの言いつけに聞き従わなかったからには、堪えがたい徒労と苦労を背負いこむことになろう。〔つまり〕激しく身もだえしながら子を産み、〔陣痛は〕1刻のあいだ続き、そなたは命を失うであろう、そなたの大いなる責め苦(ananke)と諸々の苦悩によって。そのとき、そなたは告白して云うであろう。「主よ、主よ、わたしをお救いください、もう決して肉の罪に向かうことはいたしません」。だから、そなたのこの言葉を〔引き出す〕ためにこそ、わしはそなたを裁こう、敵がそなたの中に置いた敵意のゆえに。そして、そなたの夫に再び立ち返り、彼がそなたの主となるであろう』。


ーーー
エバが【肉の罪に向かうことはしません】と言うだろうとの記述があって
通常、肉の罪は姦淫の罪のことなんですよね。

あとに続く言葉も、意味深で、
そなた(エバ)のこの言葉を〔引き出す〕ためにこそ、わし(神様)はそなた(エバ)を裁こう、
敵(サタン)がそなた(エバ)の中に置いた敵意(罪)のゆえに。そして、そなた(エバ)の夫(アダム)に再び立ち返り、彼(アダム)がそなた(エバ)の主となるであろう』。

悪魔にそそのかされて
本当にただの木の実を食べただけなら、
悪魔が、、エバの中に置いた敵意、これ意味不明です。

夫のアダムが側にいたのに、まるで神様だけではなくて、夫のアダムまでも捨てて、悪魔を選んで悪魔と何かをしたというニュアンスです。

濁してある部分を前後の文脈から読み取ると、
【偽りの夫の悪魔から、真実の】夫のアダムに立ち返る。と。

昔のキリスト教の教父達も、このユダヤ教の外典を読んだ人も居たでしょうから。

最初の女性、エバの性的な罪が、原罪に関わっているのでは?とは思っても、

相手がサタンで霊的な相手と肉体をもつ人間のエバとでは性的な関係を持てない。
悪魔や異教を信じること偶像礼拝を姦淫と言う理由は、原罪が悪魔と通じた性的罪であったのか??

でも悪魔とエバとの霊的な者との性的罪が原罪なら、エバの子孫全てに広がったのはなんで??となって、霊的な罪が肉体的な罪に転嫁してることを、どう説明したらよいか分からず、思考がこんがらがって

なら、原罪に近い女性を遠ざければ、アダムとか、イエス様に近い、清い状態になれて万事解決。と、、

悪魔と原罪を作り出した女性を遠ざけることで、原罪や罪を増やさないようにしようと考えたのかもです。

でもアダムにエバを与えたのは神様です。
男女は、夫婦となり一対となるのが自然なのです。

カトリック教皇、司祭らが、
無理に女性を遠ざけ結婚を禁止した結果は、、、言わずもがな、です。

修道女が修道院で出産したり、子どもが被害者になったり。不自然な結果になりました。

カトリックは、なんとなくであっても
性的な罪が、原罪ではないか?と思っていたのでは?と思います。

既婚者同士の不倫はしては行けないから禁止して当然だけれど、そうではない未婚の男女同士も司祭だからという理由で結婚するのを禁止するのはおかしいからです。

初代教皇とされるペトロは、

マタイによる福音書 8:14 新共同訳
14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 

母ではなく姑なので、妻の家に婿入りしていたわけですから結婚していたのですよね。
イエス様にも、あなたが仰る通り、
婚約者のマグダラのマリアがお側にいました。

最後の晩餐は、本来イエス様とマグダラのマリアが婚約期間が満了して婚姻を祝う予定の日でした。
だから人数分の食事の用意が出来てあったのでした。

過越の祝いの食事まででしたが、
イエス様の隣にはマグダラのマリア、イエス様の愛する弟子の彼女が座った。イエス様の妻の位置に。

イエス様御自身は、ぶどう酒数口以外は口にされなかった。十字架に向かうために。


話を戻して、
カトリックは、原罪が性的罪かもと気づいていたかもしれないけれど、支配階級の王族、貴族は、、不倫やら、淫らなパーティーをしたりしてましたし、

キリスト教の母体のユダヤの
イスラエルのソロモン王だとて、王妃の他に妻、愛妾が数え切れないくらいいましたから、。

性的罪の事をあれこれ王侯貴族らに強く言えない裏事情があったのかもです。
彼らなどから多額の寄付を受けて免罪符だしたりしてましたし。

悪魔と人との性的罪が、原罪と気づいてたとしても、
姦淫の罪もそれに似た罪ですから、混同して
下手に、原罪は性的罪です。、、とは言えない、
と思ってたのかもしれません。

霊的な罪が肉体的な罪に転嫁したプロセスは、
エバだけでなくアダムも罪を犯したからです。

上で書いたように
罪を犯したのがエバだけだったなら、エバが悔いて、無原罪のアダムが神様との中保者となり
原罪を原罪のままにしないで罪を贖い清めれたのです。

ふたり共に悪魔と繋がり原罪を犯し、
罪人のふたりが、男女、夫婦で、子供を産んだ事で、
子供の肉体に原罪の罪の要素が、
アダムから半分、エバから半分、霊的にも肉体的にも罪という因子が受け継がれ遺伝したのです。

肉体の遺伝子に傷がついて子孫に遺伝、のようなことが、原罪でも起きたわけです。

悪魔に人が繋がり霊的に即死した時に、
霊と肉体に原罪という名の傷がついて、子孫にも同じ傷が増えていき、

人の悪の霊的父である悪魔と似た所業、神様批判、神様否定、神様離反をしやすくなってしまったのです。

片方が無原罪のままでいれてたら、そうはならなかった。

悪魔が、、エバの中に置いた敵意とは、
性的行為で悪魔からエバの中に植え付けられた罪の霊的因子(罪の種)。

悪魔は元天使で、見た目は美しいままでした。
心は蛇のように、変性して邪悪でしたけれど。

見た目が美しいままだったので
エバは、悪魔の性的誘惑に負けたのです。

創世記の頃は、天使は、肉のようなものをまとって
地上に降りて来ていた。

神の子ら(天使)が人の娘を娶って、
ネフィリムを産ませたという聖句が有るので、
霊的な天使が人の目に見えるようにする仮の身体のようなものはあったのかもしれないです。

無原罪のときのアダムとエバは、霊の目が開いていたので、相手が霊のままでも見えて話せていたのでしょうし。

肉体的に悪魔と一体となってなくても
心を奪われて彼の言葉を第一にし
言いなりになったのなら、、神様よりアダムより
悪魔を選んだことですから、。

霊的に悪魔と心で一体となったと言えるので、
エバの霊が聖なるものから罪なるものへ堕落し、
霊は霊、肉は肉で、罪を帯びて、

罪を霊と肉に帯びた者同士の子らは、
産まれたときから霊と肉に罪を帯びていたのです。
これが原罪が、全人類に広がったプロセスです。

最初の男女2人共に、原罪を犯した事が
原罪が肉的に転嫁して遺伝した理由です。

最初は、原罪は悪魔と人とでの霊的罪、。
その罪を犯した者同士の子らだから、
産まれてくる子らは、2人の霊と肉、両方から罪の因子(罪の種)を受け継ぐことになった。

個人的憶測では、エバは
悪魔の見た目の美しさに心奪われて、、
言いなりになって、陥落。

アダムは、エバを失うくらいなら自分も、と
悪魔の招きに従って、堕落。

ーーー
聖霊について

聖霊と訳されているギリシャ語(プニューマ πvευμα)は中性名詞で、男女両方の要素を含みます。

創世記1章2節

2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

2 And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep. And the Spirit of God moved upon the face of the waters.
And the Spirit


WLC (Consonants Only)ヘブル語テキスト
והארץ היתה תהו ובהו וחשך על־פני תהום ורוח אלהים מרחפת על־פני המים

深淵の面と神の霊 פְּנֵ֣י תְה֑וֹם וְר֣וּחַ אֱלֹהִ֔ים מְרַחֶ֖פֶת


 神の אֱלֹהִ֔ים

 霊、風 וְר֣וּחַ        

ここで霊や風と訳されているのは
聖霊を指すへブル語で女性名詞です。

聖霊は、母性をもつ御方です。
霊的な生まれ変わり、霊的新生に、
聖霊の働きは不可欠ですから。

また全ての生命が産み出されたり宿すのも
聖霊が生命の母として働きます。

イエス様の受胎でも、
イエス様も肉体的には人でしたから、
イエス様の肉的な父、祭司ザカリアに聖霊が働き、御母マリアはイエス様を受胎しました。


テトスへの手紙3章5節
5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

信仰による霊的新生には聖霊が必要で‥聖霊によらなければ新たに造り変えられることはないです。

それは、心が悪魔の木に繋がっていたならば
聖霊が働けない。 
聖霊が働けないなら新生できないからです。


人は神様の似姿です。
逆を言えば神様は人に似ているのです。
アダムのあばら骨、アダムの肉体の一部から女性エバが生まれました。

今の現代的にいえば、
アダムの骨、アダムの遺伝子をもとにして女性エバは生まれたわけです。アダムは男から取られたからイシャ、女とエバを呼びました。

つまり神様のお姿も、このことと似ています。
父なる神様とイエス様(男性アダム)の中に母性なる聖霊(女性エバ)はもとから含まれているのです。

神様から、分かれて働いているだけで、
元は同じお一人の愛の神様なのですから。
霊的存在と言うのは幾重にも重なりあって一体となれるのです。

神様は、霊的な御存在です。
お一人にもなれるし、お三人にも変幻自在、自由になれます。
働きにより役割分担しているのです。

人間アダムが、ひとりでいるのは良くないと
神様は仰いました。
それは神様御自身が、父性の神様とイエス様と、聖霊とで、必要がある時に助けあっているからです。

1本の矢より2本の矢のほうが折れないです。
3本なら、、もっと折れないです。

神様の似姿の人間が、男女一対で、
創造されたのですから、
神様も父性と母性とで一対なのです。

神様と聖霊、、イエス様と聖霊。
神様とイエス様、と聖霊。


ルカによる福音書3章22節
22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ーーー
空から鳩の姿で聖霊がイエス様の元へ降り、
天から父なる神様が、
、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃって、
みいつの神様が、3つのペルソナによって
この世に顕現をされています。


神様は、人の命の霊と魂とを、
その内から生み出し肉体に拭き入れます。
聖霊は、その命を見守り助け育みます。

もし、道を誤り神様から離れ、眠りにつき
死んだようになった人が、間違いに気付き改心して
神様に立ち帰り信仰心を取り戻した時に、
聖霊は気づきを与えてくれます。


この働きは、母性的ですから、
聖霊は全ての命の母と呼ばれます。
母性的な働きがあるから女性名詞が使われています。

イスラエルでも、子を育てるのは母の役目です。
大事に愛情をかけて育てます。


ーーーー
ヨハネ福音書3章
4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水(洗礼の時の水、羊水の象徴)と霊(聖霊)とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

6 (原罪のある)肉から生まれたものは肉(の罪のあるまま)である。霊(聖霊)から生まれたものは霊(聖霊による新生した命)である。

7 『あなたがたは新たに(水と聖霊により)生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

8 風(聖霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

ーーー
聖霊は、霊的生まれ変わり新生に関与します。

人はいくつになっても、
肉体から去るまでに、
洗礼を受け聖霊による新生をすれば、
霊肉共に原罪のない命に新生出来ます。


聖霊への冒涜は、
全ての命の母への冒涜で、
自己の命への冒涜と否定と同じです。

サタンだとで、
みいつの神様の被造物ですから、
彼の創造のときに、彼の霊の命を、、
聖霊も神様と共に生み出しているのですし。

自分の命の与え主である神様への冒涜にもなります。
自分で自分自身を憎み嫌えば、誰が救えるでしょうか?

悪魔が救われるには、、
あなたの隣人を、
自分自身のように愛しゆるさないと
父もあなた方をゆるされないとの、
イエス様の黄金律通り、、、

神様への憤りと人間を妬むのをやめて
自分の罪を悔いない限りは、
たとえ聖霊でも悪魔を救えません。

人間は、、悪魔よりは悪党ではないし、
悪魔ですら、神様は悪魔が悔いるのを
待って滅ぼさないでお待ちになられているから、、

人間なら尚更、、罪を悔い、
真摯に赦しを乞う事で憐れみを与えて頂けます。


来たるべき御方は、、
聖霊と火(御言葉)で、霊的な洗礼を心に向けて与えます。すでにイエス様により、この世の終わりまでの人類全ての原罪は贖われています。

だから、御言葉の御命令を、
悪魔のように否定せず受け入れ、、。

イエス様を信じ、
罪を結ぶ悪魔の木から離れて
生命の木であるイエス様に繋がれば、、
聖霊は速やかに働けます。ハレル ヤー。


エゼキエル18:20,21の罪は、原罪ではなく
その人自身が犯した罪のことです。
原罪とその人が犯した罪とは別の罪です。

原罪は、その人自身がしてはいないけれど
その人が生まれるまでに、先祖代々が犯してしまった罪の因子の積み重ねのことです。

血に潜む家系的な先祖の罪の負債、
いわば負の遺産の継承です。

海外のサイトで昔読んだのですが
何らかの信仰を代々もつ家系と、
無神論の家系とでは、、

無神論のお家からは犯罪者、自殺者が多く出て、
信仰をもつ家では、弁護士、医者など、世に役立つ職につく人が多かったとか、、。

人殺しをしたら、本人が罪を贖うのは当然ですけど
殺されて死んだ人自身や、その家族は、憎み恨みますよね。

そういう人の恨み、憎しみを買うようなことを
たくさん積み上げてしまうと、、
子孫の本人は悪くないのだけど、

負の遺産の継承のせいで
踏んだり蹴ったりろくな目に合わない。
どういうわけか運が悪い、、。
というようなことが起きます。

聖句では4代と書かれていますけど
それで終わらない場合もあると思います。
その家系の血筋がが続く限り。

だから常に良い人間でありたいと努力して
家族を大事にして、心穏やかに生きて行くことが
運気を悪くしないで済むコツです。


アダムとエバが、無原罪のままであっても、
罪を全然犯さないで済んだかといえば、否でしょう。
今の人類より遥かに無垢に近かったのに、
悪魔にそそのかされて、負けたのですから。

悪魔は、アダム、神の似姿を礼拝するよう言われて
それが原因で、神様に不信感を持って背き、部下の天使らを扇動し反旗を翻しました。

神様に背いた事で堕天し地上に落とされ悪魔になった彼は、自分が天使でなくなったことも、

アダムが生まれて居なければ、、自分が一番神に近かったのに、こんな非力な人間をなんで礼拝しなきゃいけない。神は、我ら天使を裏切った。と
神様を恨み自惚れていたので、
アダムのことも憎んでたので、堕落させたのです。

自分のほうが優れている証明のために。


長文を、お読み頂き、ありがとうございます。

これでも大分削りました。

申し訳ないです。