超新未来神学

 

「神様の戒めと原罪そして愛と赦し」

 

神様は人祖にたったひとつの戒めを与えていました。

 

人祖の時代では、たったひとつの事だったのです。

 

それは善悪の知識の木からは取って食べてはいけない

という事です。聖書を読みましょう。

創世記 / 2章 16節&17節
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 

園の中央には善悪知識の木の他、命の木が生えていた。

創世記/ 2章 9節
神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた。

 

人が蛇にそそのかされて善悪知識の木から取って食べた後、神様は人が命の木からは取って食べる事ができないように

した。

創世記/ 3章 22節
神様である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
創世記/ 3章 24節
神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

 

善悪知識の木から取って食べた後、人が善悪を知る者となったと記録された事は堕落したという表示(示唆)であり、

善と悪が何なのかを知ったという事です。

 

そして、命の木からは取って食べられないようにされた。

 

みなさん、

どうして神様は善悪を知るの木からは取って食べるなと

指示していたのか?が疑問ですね。

それに加え、

そんなに悪いものなら園に置かなければ良かったのではないか?と思います、、でしょう?

 

園の中央に神さまが置いたのではないのです。

出現したのです。

 

出現?

 

以下で説明します。

 

その前に善悪を知るの木とは何だったのでしょうか?

 

あるプロテスタント教団は人が神様の言う事に従順かどうかを試すための木だと言います。

 

別のプロテスタント教団はこの木は神様の権威だと言います。食べるかどうかで神様の権威に従うかの試験的なものと言う。

 

また別のプロテスタント教団は神様に従う自由も従わない自由も有る自由意志を与えるためのものだと言います。

 

 

カトリックは被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、 尊重しなければならない超えがたい限界を、象徴的に表しているものと主張しています。

 

私は悪いけど笑ってしまいます。

どこも、誰も知らないのです。

 

結論から言いますと、サタンです。

 

 

 

イエス様が言ったあなたは天から堕ちてしまったの対象は

サタンでした。

ヨハネの黙示録/ 12章 9節
この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。

 

蛇に暗喩され、加えて善悪の知るの木と象徴的に表現された者もサタンの事だったのです。

 

これも読んでみましょう。

創世記/ 3章 22節
主なる神様は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 

我々の一人のように、善悪を知る者となった。一人とは誰でしょう?善悪を知った者は? この時の我々とは神さまと天使の事でした。しかしその天使の中のひとりと限定しています。絶対善で創造された世界で、悪を知った天使はだれ?

ひとりです、、それは堕天使のサタンです!

罪を犯し悪を知った元天使はサタンのみです。

そのサタンは善悪を知る者と聖書は証言しています。

 

だから、善悪知るの木というのはサタンなのです。

 

一方、命の木はイエス様の事です。

ヨハネによる福音書/ 14章 6節
イエス様は言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。と書かれています。

 

どの教団もそれを知らないから本当に植物の木が園の中央に

在ったのだと思い込んでいます。

そしてその無知を各々の教団信徒に教えている。

 

それは、悲劇ですね。

 

余計な戒めのおかげでアダムは原罪を負ったと思い込んでいる。

 

神様が置いたのでは無く、堕落したサタンが

園に出現していたのです。

 

だから、、

善悪の木がサタンなので、神様は人にサタンとの接触は

してはいけないと指示していたのですよ。

 

サタンは人を騙すからです。

 

だから善悪の木から取って食べるなの戒めは

神様の愛ある親心です。

罰を目的とした戒めでは無かったのです。

 

 

完全善の創造の神様の造ったこの世の世界は当初

善の世界だったけれど、神様に反逆して悪を初めて知ったのがサタンだったのです。

 

だからサタンが善悪知るの木と表現されました。

 

人祖アダムとエバはサタンと関係を持った為

原罪を負ってしまいました。

 

アダムとエバが負ったのは原罪。

それ以降の人の罪は原罪とは言いません。

通常の罪です。

 

神様の直接の戒めを破ったのが原罪です。

アダムは神様に直接戒めを言い渡されていたのです。

 

現代は直接では無いでしょう?

 

罪人となったアダムとエバだったので、そのままでは

罪の世になり、広がって行きます。

 

だから原罪を取り除き罪を赦す存在が必要になった。

 

その存在をメシアまたはキリストと言います。

罪を負った人が罪人を赦す事はできますか?

そんな権威は無いのでしょう。

 

もしそれをしたら、サタンが何の権威で罪人が罪人を赦せるのか?と神様に訴えます。

 

それで、無原罪のメシアが必要になったのです。

 

人はメシアを迎えるため儀式を行います。

神様に向かって捧げものをします。

 

人は罪があるので直接神さまの御前に立てない。

それで穢れのない供え物を神様との間に置いて儀式を

行うことになった。

 

ユダヤ教に限らず昔の宗教は殆ど供え物をします。

犠牲という物もあります。

 

ユダヤ教は朝夕犠牲の動物を毎日神殿で捧げていました。

 

愛の神様は犠牲が欲しい訳ではなかったのです。

 

罪人が救われるためには、メシアが必要だから、

儀式をさせていただけです。

 

儀式はアダムの子アベルとカインから始まりました。

 

本当なら罪を犯したアダムが儀式を行うはずでしょうが、

原罪をおかした本人なので儀式は許されませんでした。

 

でもカインとアベルの仲たがいでカインはアベルを殺し

儀式は失敗。

 

その後すぐに新たな儀式は行なわれるはずですが、

失敗したので悔い改めの期間を待つことになり、

アダムから10代はできませんでした。

 

それで10代後のノアの時方舟を持って

儀式が行われました。

 

でも、ノアの子ハムの失敗で頓挫。

 

それからまた10代後アブラハムの時に

儀式が行われた。

 

アブラハム、イサク、ヤコブで一応の儀式は成功しました。

 

でも、まだメシアは来ません。

 

それでもメシアの予型は出現しました。

 

エジプトに行ったヨセフ、モーセ、ダビデ、

 

それらの予型者はある程度信仰をたてられていました。

 

子孫に原罪が代々引き継がれているのは、

まだ親の持つ原罪の赦しを得ていないからです。

通常の罪なら子には引き継がれません。

 

原罪だからです。

霊と肉を持って人は神様を裏切ったのだから、

霊と肉を持って来臨する神様に赦してもらうしかないです。

 

それまでは子々孫々原罪を受けついでいます。

 

そして準備がほぼ整ったとしてイエス様が来臨しました。

 

民を罪から救うためです。

 

でも、イエス様は十字架にかけられてしまいます。

 

キリスト教師らは

イエス様は十字架にかかって死ぬために来た、

十字架にかかった民の贖いのために死んだと言います。

 

民の罪の代わりに死んだのは正しいが、

最初から死んで罪を贖うとは決まっていない。

それは次善の方策です。

 

第一番目の方策は神殿の聖所そして至聖所に

入ってメシア宣言し、民と新たな契約をして

原罪を赦すという事だったのです。

 

それを言うと私は異端者といわれる。

 

でも言い続けます。

 

新たな契約をすれば、罪の赦しもできて、

イエス様は血を流さないで済んだはず。

 

十字架の血でもイエス様を信じれば赦される事には

なっています。それは次善策でした、

 

第一の方法だったら信徒も後々迫害されないで済んだ。

 

 

 

人には自由意志という素晴らしいものが与えられています。

 

自由意志を持つという事は責任があるという事。

 

メシアを殺したのだから相応の罰は有る。

 

愛ある神様なら殺されても赦すというのは

無責任といえます。

 

自由意志があるなら信じるも信じないも人に

任せられています。

 

それには責任が伴います。それがこの世の原理原則。

 

神様は罰しようと思ってはいません。

出来る事なら何でも赦したいけれど、、

 

ここで言います。

人は神様の似姿に創られています。

 

神様は愛の神様ながら、すべてに責任を持つという

神性があります。

 

だから人も神様に似せられているので責任を

持つように造られている。

 

責任を全うできないなら、、責任を取る事に

なります。律法では罪の贖いは目には目を命には命の

等倍で贖うのが原則だけど、最初の贖いの儀式では

小さな犠牲でも良しとされる愛の神様です。

 

でも失敗したら等倍ということになる。

 

それからぁ、神様は全てに責任をもっていますから、

被造世界に悪や罪が無になるまで摂理を進めます。

 

全てです、、全てなので最終的にはサタンも救います。

 

サタンは元輝く天使だったので、元の天使に戻ります。

 

神様は絶対善の存在だから神様が造る被造世界も

善の世界であるはずだった。

でも堕天使が出現した。神様は創造目的を完成する

責任があるから、必ず悪の無い世界を目指します。

 

この世に悪が存在すれば未完成なのですから、、。

 

これ言ったので、私、轟轟の非難ですね。

 

覚悟しています。

 

少しまとまりが無い記事になったので

質問はお受けします。

 

或る団体では命の木はアダムまたはイエス様で、

善悪知るの木はエバだと主張している。

 

これについて、言及します。

ヘブライ語聖書の命の木は男性名詞です。

善悪知るの木は男性名詞と女性名詞が混合しています。

男性でもあり女性でもある存在?、またはどちらでも無い

存在は天使を示唆しています。

堕天使サタンも性別はありません。

 

もし善悪知るの木がエバだとすると、エバがエバを取って食べる事になり、転じてエバが自分自身で何らかの関係を持つ事になります。それは論理矛盾となりますので完全に間違っています。

あぁーまた、禁断の秘密を書いてしまいました。

 

これは言ってはいけない事の中でも最高の秘密でした。

 

以前言われたように私は異端者とか悪魔だとか言われるかな、。

 

しかし、仕方ない。イエス様の時もイエス様は

聖書を成就するためだったけど、既知の教えを

覆して民に話した事があり、殺されるほどに

ユダヤ教の祭司たちに憎まれました。

 

私もそれに見習ってでは無いけれど、

自分の主張を言い続けます。